匂宮(1)
おぼつかなたれに問はまし如何にして始めも果ても知らぬわが身ぞ
紅梅(4)
心ありて風の匂はす園の梅にまづ鶯の訪はずやあるべき
花の香に誘はれぬべき身なりせば花のたよりを過ぐさましやは
本つ香の匂へる君が袖なれば花もえならぬ名をや散らさん
花の香を匂はす宿に尋め行かば色に愛づとや人の咎めん
竹河(24)
折りて見ばいとど匂ひもまさるやと少し色めけ梅の初花
よそにては捥木なりとや定むらん下に匂へる梅の初花
人は皆花に心を移すらん一人ぞ惑ふ春の夜の闇
折からや哀れも知らん梅の花ただかばかりに移りしもせじ
竹河のはしうちいでし一節に深き心の底は知りきや
竹河によを更かさじと急ぎしもいかなる節を思ひおかまし
桜ゆゑ風に心の騒ぐかな思ひぐまなき花と見る見る
咲くと見てかつは散りぬる花なれば負くるを深き怨みともせず
風に散ることは世の常枝ながらうつろふ花をただにしも見じ
心ありて池の汀に落つる花泡となりてもわが方に寄れ
大空の風に散れども桜花おのがものぞと掻き集めて見る
桜花匂ひあまたに散らさじとおほふばかりの袖はありやは
つれなくて過ぐる月日を数へつつ物怨めしき春の暮れかな
いでやなぞ数ならぬ身にかなはぬは人に負けじの心なりけり
わりなしや強きによらん勝ち負けを心一つにいかが任する
哀れとて手を許せかし生き死にを君に任するわが身とならば
花を見て春は暮らしつ今日よりや繁きなげきの下に惑はん
今日ぞ知る空をながむるけしきにて花に心を移しけりとも
哀れてふ常ならぬ世の一言もいかなる人に掛くるものぞは
生ける世の死には心に任せねば聞かでややまん君が一言
手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
紫の色は通へど藤の花心にえこそ任せざりけれ
竹河のその夜のことは思ひいづや忍ぶばかりの節はなけれど
流れての頼みむなしき竹河に世はうきものと思ひ知りにき
橋姫(13)
打ち捨ててつがひ去りにし水鳥のかりのこの世に立ち後れけん
いかでかく巣立ちけるぞと思ふにもうき水鳥の契りをぞ知る
泣く泣くも羽うち被する君なくばわれぞ巣守もりになるべかりける
見し人も宿も煙となりにしをなどてわが身の消え残りけん
世をいとふ心は山に通へども八重立つ雲を君や隔つる
跡たえて心すむとはなけれども世を宇治山に宿をこそ借れ
山おろしに堪へぬ木の葉の露よりもあやなく脆きわが涙かな
朝ぼらけ家路も見えず尋ねこし槙の尾山は霧こめてけり
雲のゐる峰のかけぢを秋霧のいとど隔つる頃にもあるかな
橋姫の心を汲みて高瀬さす棹の雫に袖ぞ濡れぬる
さしかへる宇治の川長朝夕の雫や袖をくたしはつらん
目の前にこの世をそむく君よりもよそに別るる魂ぞ悲しき
命あらばそれとも見まし人知れず岩根にとめし松の生ひ末
椎が本(21)
山風に霞吹き解く声はあれど隔てて見ゆる遠の白波
遠近の汀の波は隔つともなほ吹き通へ宇治の川風
山桜にほふあたりに尋ね来て同じ挿頭を折りてけるかな
挿頭折る花のたよりに山賤の垣根を過ぎぬ春の旅人
われなくて草の庵は荒れぬともこの一ことは枯れじとぞ思ふ
いかならん世にか枯れせん長き世の契り結べる草の庵は
牡鹿鳴く秋の山里いかならん小萩が露のかかる夕暮れ
涙のみきりふさがれる山里は籬に鹿ぞもろ声に鳴く
朝霧に友惑はせる鹿の音を大方にやは哀れとも聞く
色変はる浅茅を見ても墨染めにやつるる袖を思ひこそやれ
色変はる袖をば露の宿りにてわが身ぞさらに置き所なき
秋霧の晴れぬ雲井にいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらん
君なくて岩のかけ道絶えしより松の雪をも何とかは見る
奥山の松葉に積もる雪とだに消えにし人を思はましかば
雪深き山の桟道君ならでまたふみ通ふ跡を見ぬかな
つららとぢ駒踏みしだく山河を導べしがてらまづや渡らん
立ち寄らん蔭と頼みし椎が本むなしき床になりにけるかな
君が折る峰のわらびと見ましかば知られやせまし春のしるしも
雪深き汀の小芹誰がために摘みかはやさん親無しにして
つてに見し宿の桜をこの春に霞隔てず折りて挿頭さん
いづくとか尋ねて折らん墨染めに霞こめたる宿の桜を
総角(31)
あげまきに長き契りを結びこめ同じところに縒りも合はなん
貫きもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが結ばん
山里の哀れ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな
鳥の音も聞こえぬ山と思ひしをよにうきことはたづねきにけり
おなじ枝を分きて染めける山姫にいづれか深き色と問はばや
山姫の染むる心はわかねども移らふかたや深きなるらん
女郎花咲ける大野をふせぎつつ心せばくやしめを結ふらん
霧深きあしたの原の女郎花心をよせて見る人ぞ見る
しるべせしわれやかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道
かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば
よのつねに思ひやすらん露深き路のささ原分けて来つるも
さよ衣着てなれきとは言はずとも恨言ばかりはかけずしもあらじ
隔てなき心ばかりは通ふとも馴れし袖とはかけじとぞ思ふ
中絶えんものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん
絶えせじのわが頼みにや宇治橋のはるけき中を待ち渡るべき
いつぞやも花の盛りに一目見し木の下さへや秋はさびしき
桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花も紅葉も常ならぬ世に
いづこより秋は行きけん山里の紅葉の蔭は過ぎうきものを
見し人もなき山里の岩がきに心長くも這へる葛かな
秋はてて寂しさまさる木の本を吹きな過ぐしそ嶺の松風
若草のねみんものとは思はねど結ぼほれたるここちこそすれ
ながむるは同じ雲井をいかなればおぼつかなさを添ふる時雨ぞ
あられ降る深山の里は朝夕にながむる空もかきくらしつつ
霜さゆる汀の千鳥うちわびて鳴く音悲しき朝ぼらけかな
あかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る
かきくもり日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな
くれなゐに落つる涙もかひなきはかたみの色を染めぬなりけり
おくれじと空行く月を慕ふかな終ひにすむべきこの世ならねば
恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山には跡を消なまし
きしかたを思ひいづるもはかなきを行く末かけて何頼むらん
行く末を短きものと思ひなば目の前にだにそむかざらなん
早蕨(15)
君にとてあまたの年をつみしかば常を忘れぬ初蕨なり
この春はたれにか見せんなき人のかたみに摘める峰のさわらび
折る人のこころに通ふ花なれや色にはいでず下ににほへる
見る人にかごと寄せける花の枝を心してこそ折るべかりけれ
はかなしや霞のころもたちしまに花の紐とく折も来にけり
見る人もあらしにまよふ山里に昔覚ゆる花の香ぞする
袖ふれし梅は変はらぬにほひにてねごめうつろふ宿やことなる
さきに立つ涙の川に身を投げば人におくれぬ命ならまし
身を投げん涙の川に沈みても恋しき瀬々に忘れしもせじ
人は皆いそぎ立つめる袖のうらに一人もしほをたるるあまかな
しほたるるあまの衣に異なれやうきたる波に濡るる我が袖
ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを身を宇治川に投げてましかば
過ぎにしが恋しきことも忘れねど今日はた先づも行く心かな
ながむれば山より出でて行く月も世に住みわびて山にこそ入れ
しなてるやにほの湖に漕ぐ船の真帆ならねども相見しものを
宿り木(24)
世の常の垣根ににほふ花ならば心のままに折りて見ましを
霜にあへず枯れにし園の菊なれど残りの色はあせずもあるかな
今朝のまの色にや愛でん置く露の消えぬにかかる花と見る見る
よそへてぞ見るべかりける白露の契りかおきし朝顔の花
消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるる露はなほぞまされる
大空の月だに宿るわが宿に待つ宵過ぎて見えぬ君かな
山里の松の蔭にもかくばかり身にしむ秋の風はなかりき
をみなへし萎れぞ見ゆる朝露のいかに置きける名残なるらん
おほかたに聞かましものを蜩の声うらめしき秋の暮れかな
うち渡し世に許しなき関川をみなれそめけん名こそ惜しけれ
深からず上は見ゆれど関川のしもの通ひは絶ゆるものかは
いたづらに分けつる路の露しげみ昔おぼゆる秋の空かな
またびとになれける袖の移り香をわが身にしめて恨みつるかな
見なれぬる中の衣と頼みしをかばかりにてやかけ離れなん
結びける契りことなる下紐をただひとすぢに恨みやはする
やどり木と思ひ出でずば木のもとの旅寝もいかに寂しからまし
荒れはつる朽ち木のもとを宿り木と思ひおきけるほどの悲しさ
穂にいでぬ物思ふらししのすすき招く袂の露しげくして
あきはつる野べのけしきもしの薄ほのめく風につけてこそ知れ
すべらぎのかざしに折ると藤の花及ばぬ枝に袖かけてけり
よろづ代をかけてにほはん花なれば今日をも飽かぬ色とこそ見れ
君がため折れるかざしは紫の雲に劣らぬ花のけしきか
世の常の色とも見えず雲井まで立ちのぼりける藤波の花
かほ鳥の声も聞きしにかよふやと繁みを分けてけふぞたづぬる
東屋(11)
見し人のかたしろならば身に添へて恋しき瀬々のなでものにせん
みそぎ河瀬々にいださんなでものを身に添ふかげとたれか頼まん
しめゆひし小萩が上もまよはぬにいかなる露にうつる下葉ぞ
宮城野の小萩がもとと知らませばつゆも心を分かずぞあらまし
ひたぶるに嬉しからまし世の中にあらぬ所と思はましかば
うき世にはあらぬ所を求めても君が盛りを見るよしもがな
絶えはてぬ清水になどかなき人の面影をだにとどめざりけん
さしとむるむぐらやしげき東屋のあまりほどふる雨そそぎかな
かたみぞと見るにつけても朝霧の所せきまで濡るる袖かな
やどり木は色変はりぬる秋なれど昔おぼえて澄める月かな
里の名も昔ながらに見し人の面がはりせる閨の月かげ
浮舟(22)
まだふりぬものにはあれど君がため深き心にまつとしらなん
長き世をたのめてもなほ悲しきはただ明日知らぬ命なりけり
心をば歎かざらまし命のみ定めなき世と思はましかば
世に知らず惑ふべきかな先に立つ涙も道をかきくらしつつ
涙をもほどなき袖にせきかねていかに別れをとどむべき身ぞ
宇治橋の長き契りは朽ちせじをあやぶむ方に心騒ぐな
絶え間のみ世には危ふき宇治橋を朽ちせぬものとなほたのめとや
年経とも変はらんものか橘の小嶋の崎に契るこころは
橘の小嶋は色も変はらじをこの浮舟ぞ行くへ知られぬ
峰の雪汀の氷踏み分けて君にぞ惑ふ道にまどはず
降り乱れ汀に凍る雪よりも中空にてぞわれは消ぬべき
ながめやるそなたの雲も見えぬまで空さへくるる頃のわびしさ
ながめやる遠の里人いかならんはれぬながめにかきくらすころ
里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住みうき
かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に浮きて世をふる身ともなさばや
つれづれと身を知る雨のをやまねば袖さへいとど水かさまさりて
浪こゆる頃とも知らず末の松らんとのみ思ひけるかな
いづくにか身をば捨てんとしら雲のかからぬ山もなく泣くぞ行く
歎きわび身をば捨つとも亡きかげに浮き名流さんことをこそ思へ
からをだにうき世の中にとどめずばいづくをはかと君も恨みん
のちにまた逢ひ見んことを思はなんこのよの夢に心まどはで
鐘の音の絶ゆる響きに音を添へてわが世尽きぬと君に伝へよ
蜻蛉(11)
忍び音や君も泣くらんかひもなきしでのたをさに心通はば
橘の匂ふあたりはほととぎす心してこそ鳴くべかりけれ
われもまたうきふるさとをあれはてばたれ宿り木の蔭をしのばん
哀れ知る心は人におくれねど数ならぬ身に消えつつぞ経る
つれなしとここら世を見るうき身だに人の知るまで歎きやはする
荻の葉に露吹き結ぶ秋風も夕べぞわきて身にはしみにける
女郎花乱るる野べにまじるとも露のあだ名をわれにかけめや
花といへば名こそあだなれをみなへしなべての露に乱れやはする
旅寝してなほ試みよをみなへし盛りの色に移り移らず
宿貸さば一夜は寝なんおほかたの花に移らぬ心なりとも
ありと見て手にはとられず見ればまた行くへもしらず消えしかげろふ
手習(28)
身を投げし涙の川の早き瀬にしがらみかけてたれかとどめし
われかくて浮き世の中にめぐるともたれかは知らん月の都に
あだし野の風になびくな女郎花われしめゆはん路遠くとも
移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花浮き世をそむく草の庵に
松虫の声をたづねて来しかどもまた荻原の露にまどひぬ
秋の野の露分け来たる狩りごろも葎茂れる宿にかこつな
深き夜の月を哀れと見ぬ人や山の端近き宿にとまらぬ
山の端に入るまで月をながめ見ん閨の板間もしるしありやと
忘られぬ昔のことも笛竹の継ぎし節にも音ぞ泣かれける
笛の音に昔のことも忍ばれて帰りしほども袖ぞ濡れにし
はかなくて世にふる川のうき瀬には訪ねも行かじ二本の杉
ふる川の杉の本立知らねども過ぎにし人によそへてぞ見る
心には秋の夕べをわかねどもながむる袖に露ぞ乱るる
山里の秋の夜深き哀れをも物思ふ人は思ひこそ知れ
うきものと思ひも知らで過ぐす身を物思ふ人と人は知りけり
なきものに身をも人をも思ひつつ捨ててし世をぞさらに捨てつる
限りぞと思ひなりにし世の中をかへすがへすもそむきぬるかな
岸遠く漕ぎ離るらんあま船に乗りおくれじと急がるるかな
こころこそ浮き世の岸を離るれど行くへも知らぬあまの浮き木ぞ
木がらしの吹きにし山の麓には立ち隠るべき蔭だにぞなき
待つ人もあらじと思ふ山里の梢を見つつなほぞ過ぎうき
おほかたの世をそむきける君なれど厭ふによせて身こそつらけれ
かきくらす野山の雪をながめてもふりにしことぞ今日も悲しき
山里の雪間の若菜摘みはやしなほ生ひさきの頼まるるかな
雪深き野べの若菜も今よりは君がためにぞ年もつむべき
袖ふれし人こそ見えね花の香のそれかとにほふ春のあけぼの
見し人は影もとまらぬ水の上に落ち添ふ涙いとどせきあへず
あま衣変はれる身にやありし世のかたみの袖をかけて忍ばん
夢の浮橋(1)
法の師を訪ぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかな
若菜(42)
さしながら昔を今につたふれば玉の小櫛ぞ神さびにける
さしつぎに見るものにもが万代をつげの小櫛も神さぶるまで
若葉さす野辺の小松をひきつれてもとの岩根を祈る今日かな
小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき
目に近くうつれば変はる世の中を行く末遠く頼みけるかな
命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき世の常ならぬ中の契りを
中道を隔つるほどはなけれども心乱るる今朝のあは雪
はかなくて上の空にぞ消えぬべき風に漂ふ春のあは
そむきにしこの世に残る心こそ入る山みちの絆なりけれ
そむく世のうしろめたくばさりがたき絆を強ひてかけなはなれそ
年月を中に隔てて逢坂のさもせきがたく落つる涙か
涙のみせきとめがたき清水にて行き逢ふ道は早く絶えにき
沈みしも忘れぬものを懲りずまに身も投げつべき宿の藤波
身を投げん淵もまことの淵ならで懸けじやさらに懲りずまの波
身に近く秋や来ぬらん見るままに青葉の山もうつろひにけり
水鳥の青羽は色も変はらぬを萩の下こそけしきことなれ
老いの波かひある浦に立ちいでてしほたるるあまをたれか咎めん
しほたるるあまを波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋を
世を捨てて明石の浦に住む人も心の闇は晴るけしもせじ
光いでん暁近くなりにけり今ぞ見しよの夢語りする
いかなれば花に木伝ふ鶯の桜を分きてねぐらとはせぬ
深山木に塒定むるはこ鳥もいかでか花の色に飽くべき
よそに見て折らぬ歎きはしげれどもなごり恋しき花の夕かげ
今さらに色にな出でそ山桜及ばぬ枝に思ひかけきと
恋ひわぶる人の形見と手ならせば汝よ何とて鳴く音なるらん
たれかまた心を知りて住吉の神代を経たる松にこと問ふ
住の江を生けるかひある渚とは年ふるあまも今日や知るらん
昔こそ先づ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても
住の江の松に夜深く置く霜は神の懸けたる木綿かづらかも
神人の手に取り持たる榊葉に木綿かけ添ふる深き夜の霜
祝子が木綿うち紛ひ置く霜は実にいちじるき神のしるしか
おきて行く空も知られぬ明けぐれにいづくの露のかかる袖なり
あけぐれの空にうき身は消えななん夢なりけりと見てもやむべく
悔しくもつみをかしける葵草神の許せる挿頭ならぬに
もろかづら落ち葉を何に拾ひけん名は睦まじき挿頭なれども
わが身こそあらぬさまなれそれながら空おぼれする君は君なり
消え留まるほどやは経べきたまさかに蓮の露のかかるばかりを
契りおかんこの世ならでも蓮の葉に玉ゐる露の心隔つな
夕露に袖濡らせとやひぐらしの鳴くを聞きつつ起きて行くらん
待つ里もいかが聞くらんかたがたに心騒がすひぐらしの声
あまの世をよそに聞かめや須磨の浦に藻塩垂れしもたれならなくに
あま船にいかがは思ひおくれけん明石の浦にいさりせし君
柏木(11)
今はとて燃えん煙も結ぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らん
立ち添ひて消えやしなましうきことを思ひ乱るる煙くらべに
行くへなき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ
たが世にか種は蒔きしと人問はばいかが岩根の松は答へん
時しあれば変はらぬ色に匂けり片枝折れたる宿の桜も
この春は柳の芽にぞ玉は貫く咲き散る花の行くへ知らねば
このもとの雪に濡れつつ逆まに霞の衣着たる春かな
亡き人も思はざりけん打ち捨てて夕べの霞君着たれとは
恨めしや霞の衣たれ着よと春よりさきに花の散りけん
ことならばならしの枝にならさなん葉守の神の許しありきと
柏木に葉守の神は坐すとも人馴らすべき宿の梢か
横笛(8)
世を別れ入りなん道は後るとも同じところを君も尋ねよ
うき世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ
憂きふしも忘れずながらくれ竹の子は捨てがたき物にぞありける
ことに出で言はぬを言ふにまさるとは人に恥ぢたる気色とぞ見る
深き夜の哀ればかりは聞きわけどことよりほかにえやは言ひける
露しげき葎の宿にいにしへの秋に変はらぬ虫の声かな
横笛の調べはことに変はらぬをむなしくなりし音こそ尽きせね
笛竹に吹きよる風のごとならば末の世長き音に伝へなん
鈴虫(6)
蓮葉を同じうてなと契りおきて露の分かるる今日ぞ悲しき
隔てなく蓮の宿をちぎりても君が心やすまじとすらん
大かたの秋をば憂しと知りにしを振り捨てがたき鈴虫の声
心もて草の宿りを厭へどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ
雲の上をかけはなれたる住家にも物忘れせぬ秋の夜の月
月影は同じ雲井に見えながらわが宿からの秋ぞ変はれる
夕霧(26)
山里の哀れを添ふる夕霧に立ち出でんそらもなきここちして
山がつの籬をこめて立つ霧も心空なる人はとどめず
われのみや浮き世を知れるためしにて濡れ添ふ袖の名を朽たすべき
おほかたはわが濡れ衣をきせずとも朽ちにし袖の名やは隠るる
萩原や軒端の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき
わけ行かん草葉の露をかごとにてなほ濡衣をかけんとや思ふ
たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心から惑はるるかな
せくからに浅くぞ見えん山河の流れての名をつつみはてずば
女郎花萎るる野辺をいづくとて一夜ばかりの宿を借りけん
秋の野の草の繁みは分けしかど仮寝の枕結びやはせし
哀れをもいかに知りてか慰めん在るや恋しき無きや悲しき
何れとも分きて眺めん消えかへる露も草葉の上と見ぬ世に
里遠み小野の篠原分けて来てわれもしかこそ声も惜しまね
ふぢ衣露けき秋の山人は鹿のなく音に音をぞ添へつる
見し人の影すみはてぬ池水にひとり宿守る秋の夜の月
いつとかは驚かすべきあけぬ夜の夢さめてとか言ひし一言
朝夕に泣く音を立つる小野山はたえぬ涙や音無しの滝
上りにし峰の煙に立ちまじり思はぬ方になびかずもがな
恋しさの慰めがたき形見にて涙に曇る玉の箱かな
うらみわび胸あきがたき冬の夜にまたさしまさる関の岩かど
馴るる身を恨みんよりは松島のあまの衣にたちやかへまし
松島のあまの濡衣馴れぬとて脱ぎ変へつてふ名を立ためやは
契りあれや君を心にとどめおきて哀れと思ひ恨めしと聞く
何故か世に数ならぬ身一つを憂しとも思ひ悲しとも聞く
数ならば身に知られまし世の憂さを人のためにも濡らす袖かな
人の世の憂きを哀れと見しかども身に代へんとは思はざりしを
御法(12)
惜しからぬこの身ながらも限りとて薪尽きなんことの悲しさ
薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法ぞはるけき
絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを
結びおく契りは絶えじおほかたの残り少なき御法なりとも
おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩の上露
ややもせば消えを争ふ露の世に後れ先きだつ程へずもがな
秋風にしばし留まらぬ露の世をたれか草葉の上とのみ見ん
いにしへの秋の夕べの恋しきに今はと見えし明け暗れの夢
古への秋さへ今のここちして濡れにし袖に露ぞ置き添ふ
露けさは昔今とも思ほえずおほかた秋の世こそつらけれ
枯れはつる野べをうしとや亡き人の秋に心をとどめざりけん
昇りにし雲井ながらも返り見よわれ飽きはてぬ常ならぬ世に
まぼろし(26)
わが宿は花もてはやす人もなし何にか春の訪ねきつらん
香をとめて来つるかひなくおほかたの花の便りと言ひやなすべき
うき世にはゆき消えなんと思ひつつ思ひのほかになほぞ程経る
植ゑて見し花の主人もなき宿に知らず顔にて来居る鶯
今はとて荒しやはてん亡き人の心とどめし春の垣根を
泣く泣くも帰りにしかな仮の世はいづくもつひのとこよならぬに
かりがゐし苗代水の絶えしよりうつりし花の影をだに見ず
夏ごろもたちかへてける今日ばかり古き思ひもすすみやはする
羽衣のうすきにかはる今日よりは空蝉の世ぞいとど悲しき
さもこそは寄るべの水に水草ゐめ今日のかざしよ名さへ忘るる
おほかたは思ひ捨ててし世なれどもあふひはなほやつみおかすべき
亡き人を忍ぶる宵の村雨に濡れてや来つる山ほととぎす
郭公君につてなん古さとの花橘は今盛りぞと
つれづれとわが泣き暮らす夏の日をかごとがましき虫の声かな
夜を知る蛍を見ても悲しきは時ぞともなき思ひなりけり
七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭の露ぞ置き添ふ
君恋ふる涙ははてもなきものを今日をば何のはてといふらん
人恋ふるわが身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり
もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな
大空を通ふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方尋ねよ
宮人は豊の明りにいそぐ今日日かげも知らで暮らしつるかな
死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほまどふかな
かきつめて見るもかひなし藻塩草同じ雲井の煙とをなれ
春までの命も知らず雪のうちに色づく梅を今日かざしてん
千代の春見るべきものと祈りおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる
物思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世も今日や尽きぬる
乙女(16)
かけきやは川瀬の波もたちかへり君が御禊の藤のやつれを
藤衣きしは昨日と思ふまに今日はみそぎの瀬にかはる世を
さ夜中に友よびわたる雁がねにうたて吹きそふ荻のうは風
くれなゐの涙に深き袖の色を浅緑とやいひしをるべき
いろいろに身のうきほどの知らるるはいかに染めける中の衣ぞ
霜氷うたて結べる明けぐれの空かきくらし降る涙かな
天にます豊岡姫の宮人もわが志すしめを忘るな
少女子も神さびぬらし天つ袖ふるき世の友よはひ経ぬれば
かけて言はば今日のこととぞ思ほゆる日かげの霜の袖にとけしも
日かげにもしるかりけめや少女子が天の羽袖にかけし心は
鶯のさへづる春は昔にてむつれし花のかげぞ変はれる
九重を霞へだつる住処にも春と告げくる鶯の声
いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音さへ変はらぬ
鶯の昔を恋ひて囀るは木づたふ花の色やあせたる
心から春待つ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ
風に散る紅葉は軽し春の色を岩根の松にかけてこそ見め
玉鬘(14)
船人もたれを恋ふるや大島のうら悲しくも声の聞こゆる
来し方も行方も知らぬ沖に出でてあはれ何処に君を恋ふらん
君にもし心たがはば松浦なるかがみの神をかけて誓はん
年を経て祈る心のたがひなばかがみの神をつらしとや見ん
浮島を漕ぎ離れても行く方やいづくとまりと知らずもあるかな
行くさきも見えぬ波路に船出して風に任する身こそ浮きたれ
憂きことに胸のみ騒ぐひびきには響の灘も名のみなりけり
二もとの杉のたちどを尋ねずば布留川のべに君を見ましや
初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢瀬に身さへ流れぬ
知らずとも尋ねて知らん三島江に生ふる三稜のすぢは絶えじな
数ならぬみくりや何のすぢなればうきにしもかく根をとどめけん
恋ひわたる身はそれながら玉鬘いかなる筋を尋ね来つらん
着て見ればうらみられけりから衣かへしやりてん袖を濡らして
かへさんと言ふにつけても片しきの夜の衣を思ひこそやれ
初音(6)
うす氷解けぬる池の鏡には世にたぐひなき影ぞ並べる
曇りなき池の鏡によろづ代をすむべき影ぞしるく見えける
年月をまつに引かれて経る人に今日鶯の初音聞かせよ
引き分かれ年は経れども鶯の巣立ちし松の根を忘れめや
珍しや花のねぐらに木づたひて谷の古巣をとへる鶯
ふるさとの春の木末にたづねきて世の常ならぬ花を見るかな
胡蝶(14)
風吹けば浪の花さへ色見えてこや名に立てる山吹の崎
春の池や井手の河瀬に通ふらん岸の山吹底も匂へり
亀の上の山も訪ねじ船の中に老いせぬ名をばここに残さん
春の日のうららにさして行く船は竿の雫も花と散りける
紫のゆゑに心をしめたれば淵に身投げんことや惜しけき
淵に身を投げつべしやとこの春は花のあたりを立ちさらで見ん
花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るらん
こてふにも誘はれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば
思ふとも君は知らじな湧き返り岩洩る水に色し見えねば
ませのうらに根深く植ゑし竹の子のおのがよよにや生ひ別るべき
今さらにいかならんよか若竹の生ひ始めけん根をば尋ねん
橘のかをりし袖によそふれば変はれる身とも思ほえぬかな
袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりもこそすれ
うちとけてねも見ぬものを若草のことありがほに結ぼほるらん
蛍(8)
鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは
声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ
今日さへや引く人もなき水隠れに生ふるあやめのねのみ泣かれん
あらはれていとど浅くも見ゆるかなあやめもわかず泣かれけるねの
その駒もすさめぬものと名に立てる汀の菖蒲今日や引きつる
にほ鳥に影を並ぶる若駒はいつか菖蒲に引き別るべき
思ひ余り昔のあとを尋ぬれど親にそむける子ぞ類ひなき
古き跡を尋ぬれどげになかりけりこの世にかかる親の心は
常夏(4)
なでしこの常なつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねん
山がつの垣ほに生ひし撫子のもとの根ざしをたれか尋ねん
草若みひたちの海のいかが崎いかで相見む田子の浦波
ひたちなる駿河の海の須磨の浦に浪立ちいでよ箱崎の松
篝火(2)
篝火に立ち添ふ恋の煙こそ世には絶えせぬ焔なりけれ
行方なき空に消ちてよかがり火のたよりにたぐふ煙とならば
野分(4)
おほかたの荻の葉過ぐる風の音もうき身一つに沁むここちして
吹き乱る風のけしきに女郎花萎れしぬべきここちこそすれ
しら露に靡かましかば女郎花荒き風にはしをれざらまし
風騒ぎむら雲迷ふ夕べにも忘るるまなく忘られぬ君
御幸(9)
雪深きをしほの山に立つ雉子の古き跡をも今日はたづねよ
小塩山みゆき積もれる松原に今日ばかりなる跡やなからん
うちきらし朝曇りせしみゆきにはさやかに空の光やは見し
あかねさす光は空に曇らぬをなどてみゆきに目をきらしけん
ふたかたに言ひもてゆけば玉櫛笥わがみはなれぬかけごなりけり
わが身こそうらみられけれ唐ごろも君が袂に馴れずと思へば
からごろもまた唐衣からごろも返す返すも唐衣なる
うらめしや沖つ玉藻をかづくまで磯隠れける海人の心よ
寄辺なみかかる渚にうち寄せて海人も尋ねぬ藻屑とぞ見し
藤袴(8)
おなじ野の露にやつるる藤袴哀れはかけよかごとばかりも
たづぬるに遥けき野辺の露ならばうす紫やかごとならまし
妹背山深き道をば尋ねずてをだえの橋にふみまどひける
まどひける道をば知らず妹背山たどたどしくぞたれもふみ見し
数ならばいとひもせまし長月に命をかくるほどぞはかなき
朝日さす光を見ても玉笹の葉分の霜は消たずもあらなん
忘れなんと思ふも物の悲しきをいかさまにしていかさまにせん
心もて日かげに向かふ葵だに朝置く露をおのれやは消つ
真木柱(21)
下り立ちて汲みは見ねども渡り川人のせとはた契らざりしを
みつせ川渡らぬさきにいかでなほ涙のみをの泡と消えなん
心さへそらに乱れし雪もよに一人さえつる片敷の袖
一人ゐて焦るる胸の苦しきに思ひ余れる焔とぞ見し
うきことを思ひ騒げばさまざまにくゆる煙ぞいとど立ち添ふ
今はとて宿借れぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな
馴れきとは思ひ出づとも何により立ちとまるべき真木の柱ぞ
浅けれど石間の水はすみはてて宿守る君やかげはなるべき
ともかくも石間の水の結ぼほれかげとむべくも思ほえぬ世を
深山木に翅うち交はしゐる鳥のまたなく妬き春にもあるかな
などてかくはひ合ひがたき紫を心に深く思ひ初めけん
いかならん色とも知らぬ紫を心してこそ人はそめけれ
九重に霞隔てば梅の花ただかばかりも匂ひこじとや
かばかりは風にもつてよ花の枝に立ち並ぶべき匂ひなくとも
かきたれてのどけきころの春雨にふるさと人をいかに忍ぶや
ながめする軒の雫に袖ぬれてうたかた人を忍ばざらめや
思はずも井手の中みち隔つとも言はでぞ恋ふる山吹の花
おなじ巣にかへりしかひの見えぬかないかなる人か手ににぎるらん
巣隠れて数にもあらぬ雁の子をいづ方にかはとりかくすべき
おきつ船よるべ浪路にただよはば棹さしよらん泊まりをしへよ
よるべなみ風の騒がす船人も思はぬ方に磯づたひせず
梅が枝(11)
花の香は散りにし袖にとまらねどうつらん袖に浅くしまめや
花の枝にいとど心をしむるかな人のとがむる香をばつつめど
うぐひすの声にやいとどあくがれん心しめつる花のあたりに
色も香もうつるばかりにこの春は花咲く宿をかれずもあらなん
うぐひすのねぐらの枝も靡くまでなほ吹き通せ夜半の笛竹
心ありて風のよぐめる花の木にとりあへぬまで吹きやよるべき
かすみだに月と花とを隔てずばねぐらの鳥もほころびなまし
花の香をえならぬ袖に移してもことあやまりと妹や咎めん
めづらしとふるさと人も待ちぞ見ん花の錦を着て帰る君
つれなさは浮き世の常になり行くを忘れぬ人や人にことなる
限りとて忘れがたきを忘るるもこや世に靡く心なるらん
藤のうら葉(20)
わが宿の藤の色濃き黄昏にたづねやはこぬ春の名残を
なかなかに折りやまどはん藤の花たそがれ時のたどたどしくば
紫にかごとはかけん藤の花まつより過ぎてうれたけれども
いく返り露けき春をすぐしきて花の紐とく折に逢ふらん
たをやめの袖にまがへる藤の花見る人からや色もまさらん
浅き名を言ひ流しける河口はいかがもらしし関のあら垣
もりにけるきくだの関の河口の浅きにのみはおはせざらなん
咎むなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖のしづくを
何とかや今日のかざしよかつ見つつおぼめくまでもなりにけるかな
かざしてもかつたどらるる草の名は桂を折りし人や知るらん
あさみどりわか葉の菊をつゆにても濃き紫の色とかけきや
二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もなかりき
なれこそは岩もるあるじ見し人の行くへは知るや宿の真清水
なき人は影だに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水
そのかみの老い木はうべも朽ちにけり植ゑし小松も苔生ひにけり
いづれをも蔭とぞ頼む二葉より根ざしかはせる松の末々
色まさる籬の菊もをりをりに袖打ちかけし秋を恋ふらし
紫の雲にまがへる菊の花濁りなき世の星かとぞ見る
秋をへて時雨ふりぬる里人もかかる紅葉の折りをこそみね
世の常の紅葉とや見るいにしへのためしにひける庭の錦を
須磨(48)
鳥部山燃えし煙もまがふやと海人の塩焼く浦見にぞ行く
亡き人の別れやいとど隔たらん煙となりし雲井ならでは
身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡のかげははなれじ
別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし
月影の宿れる袖は狭くともとめてぞ見ばや飽かぬ光を
行きめぐりつひにすむべき月影のしばし曇らん空なながめそ
逢瀬なき涙の川に沈みしや流るるみをの初めなりけん
涙川浮ぶ水沫も消えぬべし別れてのちの瀬をもまたずて
見しは無く有るは悲しき世のはてを背きしかひもなくなくぞ経る
別れしに悲しきことは尽きにしをまたもこの世の憂さは勝れる
ひきつれて葵かざせしそのかみを思へばつらし加茂のみづがき
うき世をば今ぞ離るる留まらん名をばただすの神に任せて
亡き影やいかで見るらんよそへつつ眺むる月も雲隠れぬる
いつかまた春の都の花を見ん時うしなへる山がつにして
咲きてとく散るは憂けれど行く春は花の都を立ちかへり見よ
生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな
惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしがな
唐国に名を残しける人よりもゆくへ知られぬ家居をやせん
ふる里を峯の霞は隔つれど眺むる空は同じ雲井か
松島のあまの苫屋もいかならん須磨の浦人しほたるる頃
こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん
しほたるることをやくにて松島に年経るあまもなげきをぞ積む
浦にたくあまたにつつむ恋なれば燻る煙よ行く方ぞなき
浦人の塩汲む袖にくらべ見よ波路隔つる夜の衣を
うきめかる伊勢をの海人を思ひやれもしほ垂るてふ須磨の浦にて
伊勢島や潮干のかたにあさりても言ふかひなきはわが身なりけり
伊勢人の波の上漕ぐ小船にもうきめは刈らで乗らましものを
あまがつむ歎きの中にしほたれて何時まで須磨の浦に眺めん
荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ繁くも露のかかる袖かな
恋ひわびて泣く音に紛ふ浦波は思ふ方より風や吹くらん
初雁は恋しき人のつらなれや旅の空飛ぶ声の悲しき
かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はそのよの友ならねども
心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな
常世出でて旅の空なるかりがねも列に後れぬほどぞ慰む
見るほどぞしばし慰むめぐり合はん月の都ははるかなれども
憂しとのみひとへに物は思ほえで左右にも濡るる袖かな
琴の音にひきとめらるる綱手縄たゆたふ心君知るらめや
心ありてひくての綱のたゆたはば打ち過ぎましや須磨の浦波
山がつの庵に焚けるしばしばも言問ひ来なむ恋ふる里人
何方の雲路にわれも迷ひなん月の見るらんことも恥かし
友千鳥諸声に鳴く暁は一人寝覚めの床も頼もし
いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり
故郷を何れの春か行きて見ん羨ましきは帰るかりがね
飽かなくに雁の常世を立ち別れ花の都に道やまどはん
雲近く飛びかふ鶴も空に見よわれは春日の曇りなき身ぞ
たづかなき雲井に独り音をぞ鳴く翅並べし友を恋ひつつ
知らざりし大海の原に流れ来て一方にやは物は悲しき
八百よろづ神も憐れと思ふらん犯せる罪のそれとなければ
明石(30)
浦風やいかに吹くらん思ひやる袖うち濡らし波間なき頃
海にます神のたすけにかからずば潮の八百会にさすらへなまし
はるかにも思ひやるかな知らざりし浦より遠に浦づたひして
泡と見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月
ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのうら寂しさを
旅衣うら悲しさにあかしかね草の枕は夢も結ばず
遠近もしらぬ雲井に眺めわびかすめし宿の梢をぞとふ
眺むらん同じ雲井を眺むるは思ひも同じ思ひなるらん
いぶせくも心に物を思ふかなやよやいかにと問ふ人もなみ
思ふらん心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きか悩まん
秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる雲井に駈けれ時の間も見ん
むつ言を語りあはせん人もがなうき世の夢もなかば覚むやと
明けぬ夜にやがてまどへる心には何れを夢と分きて語らん
しほしほと先づぞ泣かるるかりそめのみるめは海人のすさびなれども
うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと
このたびは立ち別るとも藻塩焼く煙は同じ方になびかん
かきつめて海人の焼く藻の思ひにも今はかひなき恨みだにせじ
なほざりに頼めおくめる一ことをつきせぬ音にやかけてしのばん
逢ふまでのかたみに契る中の緒のしらべはことに変はらざらなん
うち捨てて立つも悲しき浦波の名残いかにと思ひやるかな
年経つる苫屋も荒れてうき波の帰る方にや身をたぐへまし
寄る波にたち重ねたる旅衣しほどけしとや人のいとはん
かたみにぞかふべかりける逢ふことの日数へだてん中の衣を
世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸をえこそ離れね
都出でし春の歎きに劣らめや年ふる浦を別れぬる秋
わたつみに沈みうらぶれひるの子の足立たざりし年は経にけり
宮ばしらめぐり逢ひける時しあれば別れし春の恨み残すな
歎きつつ明石の浦に朝霧の立つやと人を思ひやるかな
須磨の浦に心を寄せし船人のやがて朽たせる袖を見せばや
かへりてはかごとやせまし寄せたりし名残に袖の乾がたかりしを
澪標(17)
かねてより隔てぬ中とならはねど別れは惜しきものにぞありける
うちつけの別れを惜しむかごとにて思はん方に慕ひやはせぬ
いつしかも袖うちかけんをとめ子が世をへて撫でん岩のおひさき
一人して撫づるは袖のほどなきに覆ふばかりの蔭をしぞ待つ
思ふどち靡く方にはあらずとも我ぞ煙に先立ちなまし
たれにより世をうみやまに行きめぐり絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ
海松や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかにわくらん
数ならぬみ島がくれに鳴く鶴を今日もいかにと訪ふ人ぞなき
水鶏だに驚かさずばいかにして荒れたる宿に月を入れまし
おしなべてたたく水鶏に驚かばうはの空なる月もこそ入れ
住吉の松こそものは悲しけれ神代のことをかけて思へば
荒かりし浪のまよひに住吉の神をばかけて忘れやはする
みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひける縁は深しな
数ならでなにはのこともかひなきに何みをつくし思ひ初めけん
露けさの昔に似たる旅衣田蓑の島の名には隠れず
降り乱れひまなき空に亡き人の天がけるらん宿ぞ悲しき
消えがてにふるぞ悲しきかきくらしわが身それとも思ほえぬ世に
蓬生(6)
絶ゆまじきすぢを頼みし玉かづら思ひのほかにかけ離れぬる
玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけて誓はん
亡き人を恋ふる袂のほどなきに荒れたる軒の雫さへ添ふ
尋ねてもわれこそ訪はめ道もなく深き蓬のもとの心を
藤波の打ち過ぎがたく見えつるはまつこそ宿のしるしなりけれ
年を経て待つしるしなきわが宿は花のたよりに過ぎぬばかりか
関屋(3)
行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらん
わくらはに行き逢ふみちを頼みしもなほかひなしや塩ならぬ海
逢坂の関やいかなる関なれば繁きなげきの中を分くらん
絵合(9)
別れ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき中と神やいさめし
別るとてはるかに言ひしひと言もかへりて物は今ぞ悲しき
一人居て眺めしよりは海人の住むかたを書きてぞ見るべかりける
うきめ見しそのをりよりは今日はまた過ぎにし方に帰る涙か
伊勢の海の深き心をたどらずて古りにし跡と波や消つべき
雲の上に思ひのぼれる心には千尋の底もはるかにぞ見る
見るめこそうらぶれぬらめ年経にし伊勢をの海人の名をや沈めん
身こそかくしめの外なれそのかみの心のうちを忘れしもせず
しめのうちは昔にあらぬここちして神代のことも今ぞ恋しき
松風(16)
行くさきをはるかに祈る別れ路にたへぬは老いの涙なりけり
もろともに都は出できこのたびや一人野中の道に惑はん
いきてまた逢ひ見んことをいつとてか限りも知らぬ世をば頼まん
かの岸に心寄りにし海人船のそむきし方に漕ぎ帰るかな
いくかへり行きかふ秋を過ごしつつ浮き木に乗りてわれ帰るらん
身を変へて一人帰れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
ふるさとに見し世の友を恋ひわびてさへづることを誰か分くらん
住み馴れし人はかへりてたどれども清水ぞ宿の主人がほなる
いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人や面変はりせる
契りしに変はらぬ琴のしらべにて絶えぬ心のほどは知りきや
変はらじと契りしことを頼みにて松の響に音を添へしかな
月のすむ川の遠なる里なれば桂の影はのどけかるらん
久方の光に近き名のみして朝夕霧も晴れぬ山ざと
めぐりきて手にとるばかりさやけきや淡路の島のあはと見し月
浮き雲にしばしまがひし月影のすみはつるよぞのどけかるべき
雲の上の住みかを捨てて夜半の月いづれの谷に影隠しけん
薄雲(10)
雪深き深山のみちは晴れずともなほふみ通へ跡たえずして
雪間なき吉野の山をたづねても心の通ふ跡絶えめやは
末遠き二葉の松に引き分かれいつか木高きかげを見るべき
生ひ初めし根も深ければ武隈の松に小松の千代を並べん
船とむる遠方人のなくばこそ明日帰りこん夫とまち見め
行きて見て明日もさねこんなかなかに遠方人は心おくとも
入り日さす峯にたなびく薄雲は物思ふ袖に色やまがへる
君もさは哀れをかはせ人知れずわが身にしむる秋の夕風
いさりせしかげ忘られぬ篝火は身のうき船や慕ひ来にけん
浅からぬ下の思ひを知らねばやなほ篝火の影は騒げる
朝顔(13)
人知れず神の許しを待ちしまにここらつれなき世を過ぐすかな
なべて世の哀ればかりを問ふからに誓ひしことを神やいさめん
見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん
秋はてて霧の籬にむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔
いつのまに蓬がもとと結ぼほれ雪ふる里と荒れし垣根ぞ
年経れどこの契りこそ忘られね親の親とか言ひし一こと
身を変へて後も待ち見よこの世にて親を忘るるためしありやと
つれなさを昔に懲りぬ心こそ人のつらさに添へてつらけれ
改めて何かは見えん人の上にかかりと聞きし心変はりを
氷とぢ岩間の水は行き悩み空澄む月の影ぞ流るる
かきつめて昔恋しき雪もよに哀れを添ふる鴛鴦のうきねか
とけて寝ぬ寝覚めさびしき冬の夜に結ぼほれつる夢のみじかさ
なき人を慕ふ心にまかせてもかげ見ぬ水の瀬にやまどはん
桐壺(9)
限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩が上を思ひこそやれ
鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽かず降る涙かな
いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人
荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩が上ぞしづ心無き
尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿
いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや
結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色しあせずば
帚木(7)
手を折りて相見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし
うき節を心一つに数へきてこや君が手を別るべきをり
つれなさを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで驚かすらん
身の憂さを歎くにあかで明くる夜はとり重ねても音ぞ泣かれける
見し夢を逢あふ夜あやと歎く間に目さへあはでぞ頃も経にける
帚木の心を知らでその原の道にあやなくまどひぬるかな
数ならぬ伏屋におふる身のうさにあるにもあらず消ゆる帚木
空蝉(2)
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
うつせみの羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな
夕顔(19)
心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花
寄りてこそそれかとも見め黄昏れにほのぼの見つる花の夕顔
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎうき今朝の朝顔
朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る
優婆塞が行なふ道をしるべにて来ん世も深き契りたがふな
前の世の契り知らるる身のうさに行く末かけて頼みがたさよ
いにしへもかくやは人の惑ひけんわがまだしらぬしののめの道
山の端の心も知らず行く月は上の空にて影や消えなん
夕露にひもとく花は玉鉾のたよりに見えし縁こそありけれ
光ありと見し夕顔のうは露は黄昏時のそら目なりけり
見し人の煙を雲とながむれば夕の空もむつまじきかな
問はぬをもなどかと問はで程ふるにいかばかりかは思ひ乱るる
うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ
ほのかにも軒ばの荻をむすばずば露のかごとを何にかけまし
ほのめかす風につけても下荻の半は霜にむすぼほれつつ
泣く泣くも今日はわが結ふ下紐をいづれの世にか解けて見るべき
逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな
蝉の羽もたち変へてける夏ごろもかへすを見ても音は泣かれけり
過ぎにしも今日別るるも二みちに行く方知らぬ秋の暮かな
若紫(25)
生ひ立たんありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき
初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えんとすらん
初草の若葉の上を見つるより旅寝の袖も露ぞ乾かぬ
枕結ふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざらなん
吹き迷ふ深山おろしに夢さめて涙催す滝の音かな
さしぐみに袖濡らしける山水にすめる心は騒ぎやはする
宮人に行きて語らん山ざくら風よりさきに来ても見るべく
優曇華の花まち得たるここちして深山桜に目こそ移らね
奥山の松の戸ぼそを稀に開けてまだ見ぬ花の顔を見るかな
夕まぐれほのかに花の色を見て今朝は霞の立ちぞわづらふ
まことにや花のほとりは立ち憂きと霞むる空のけしきをも見ん
面かげは身をも離れず山ざくら心の限りとめてこしかど
嵐吹く尾上のさくら散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ
浅香山浅くも人を思はぬになど山の井のかけ離るらん
汲み初めてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影を見すべき
見てもまた逢ふ夜稀なる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな
世語りに人やつたへん類ひなく憂き身をさめぬ夢になしても
いはけなき鶴の一声聞きしより葦間になづむ船ぞえならぬ
手に摘みていつしかも見ん紫の根に通ひける野辺の若草
あしわかの浦にみるめは難くともこは立ちながら帰る波かは
寄る波の心も知らで和歌の浦に玉藻なびかんほどぞ浮きたる
朝ぼらけ霧立つ空の迷ひにも行き過ぎがたき妹が門かな
立ちとまり霧の籬の過ぎうくば草の戸ざしに障りしもせじ
ねは見ねど哀れとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを
かこつべき故を知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん
末摘花(14)
もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいざよひの月
里分かぬかげを見れども行く月のいるさの山を誰かたづぬる
いくそ度君が沈黙に負けぬらん物な云ひそと云はぬ頼みに
鐘つきてとぢめんことはさすがにて答へまうきぞかつはあやなき
云はぬをも云ふに勝ると知りながら押しこめたるは苦しかりけり
夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさ添ふる宵の雨かな
晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ同じ心にながめせずとも
朝日さす軒のたるひは解けながらなどかつららの結ぼほるらん
ふりにける頭の雪を見る人も劣らずぬらす朝の袖かな
唐衣君が心のつらければ袂はかくぞそぼちつつのみ
なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖に触れけん
くれなゐのひとはな衣うすくともひたすら朽たす名をし立てずば
逢はぬ夜を隔つる中の衣手でに重ねていとど身も沁みよとや
くれなゐの花ぞあやなく疎まるる梅の立枝はなつかしけれど
紅葉賀(17)
物思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うち振りし心知りきや
から人の袖ふることは遠けれど起ち居につけて哀れとは見き
いかさまに昔結べる契りにてこの世にかかる中の隔てぞ
見ても思ふ見ぬはたいかに歎くらんこや世の人の惑ふてふ闇
よそへつつ見るに心も慰まで露けさまさる撫子の花
袖濡るる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまと撫子
君し来ば手馴の駒に刈り飼はん盛り過ぎたる下葉なりとも
笹分けば人や咎めんいつとなく駒馴らすめる森の木隠れ
立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨そそぎかな
人妻はあなわづらはし東屋のまやのあまりも馴れじとぞ思ふ
包むめる名や洩り出でん引きかはしかくほころぶる中の衣に
隠れなきものと知る知る夏衣きたるをうすき心とぞ見る
恨みても云ひがひぞなき立ち重ね引きて帰りし波のなごりに
荒だちし波に心は騒がねどよせけん磯をいかが恨みぬ
中絶えばかごとや負ふと危ふさに縹の帯はとりてだに見ず
君にかく引き取られぬる帯なればかくて絶えぬる中とかこたん
つきもせぬ心の闇にくるるかな雲井に人を見るにつけても
花宴(8)
大かたに花の姿を見ましかばつゆも心のおかれましやは
深き夜の哀れを知るも入る月のおぼろげならぬ契りとぞ思ふ
うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば訪はじとや思ふ
何れぞと露のやどりをわかむ間に小笹が原に風もこそ吹け
世に知らぬここちこそすれ有明の月の行方を空にまがへて
わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君を待たまし
あづさ弓いるさの山にまどふかなほの見し月の影や見ゆると
心いる方なりませば弓張の月なき空に迷はましやは
葵(24)
影をのみみたらし川のつれなさに身のうきほどぞいとど知らるる
はかりなき千尋の底の海松房の生ひ行く末はわれのみぞ見ん
千尋ともいかでか知らん定めなく満ち干る潮ののどけからぬに
はかなしや人のかざせるあふひ故神のしるしの今日を待ちける
かざしける心ぞ仇に思ほゆる八十氏人になべてあふひを
くやしくも挿しけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを
袖濡るるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子の自らぞ憂き
あさみにや人は下り立つわが方は身もそぼつまで深きこひぢを
歎きわび空に乱るるわが魂を結びとめてよ下がひの褄
昇りぬる煙はそれと分かねどもなべて雲井の哀れなるかな
限りあればうす墨衣浅けれど涙ぞ袖を淵となしける
人の世を哀れときくも露けきにおくるる露を思ひこそやれ
とまる身も消えしも同じ露の世に心置くらんほどぞはかなき
雨となりしぐるる空の浮き雲をいづれの方と分きてながめん
見し人の雨となりにし雲井さへいとど時雨に掻きくらす頃
草枯れの籬に残る撫子を別れし秋の形見とぞ見る
今も見てなかなか袖を濡らすかな垣ほあれにしやまと撫子
わきてこの暮こそ袖は露けけれ物思ふ秋はあまた経ぬれど
秋霧に立ちおくれぬと聞きしより時雨るる空もいかがとぞ思ふ
亡き魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに
君なくて塵積もりぬる床なつの露うち払ひいく夜寝ぬらん
あやなくも隔てけるかな夜を重ねさすがに馴れし中の衣を
あまたとし今日改めし色ごろもきては涙ぞ降るここちする
新しき年ともいはず降るものはふりぬる人の涙なりけり
榊(33)
神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ
少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ
暁の別れはいつも露けきをこは世にしらぬ秋の空かな
大方の秋の別れも悲しきに鳴く音な添へそ野辺の松虫
八洲もる国つ御神もこころあらば飽かぬ別れの中をことわれ
国つ神空にことわる中ならばなほざりごとを先づやたださん
そのかみを今日はかけじと思へども心のうちに物ぞ悲しき
ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖は濡れじや
鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢までたれか思ひおこせん
行くかたをながめもやらんこの秋は逢坂山を霧な隔てそ
蔭ひろみ頼みし松や枯れにけん下葉散り行く年の暮かな
さえわたる池の鏡のさやけさに見なれし影を見ぬぞ悲しき
年暮れて岩井の水も氷とぢ見し人影のあせも行くかな
心からかたがた袖を濡らすかな明くと教ふる声につけても
嘆きつつ我が世はかくて過ぐせとや胸のあくべき時ぞともなく
逢ふことの難きを今日に限らずばなほ幾世をか歎きつつ経ん
長き世の恨みを人に残してもかつは心をあだとしらなん
あさぢふの露の宿りに君を置きて四方の嵐ぞしづ心なき
風吹けば先づぞ乱るる色かはる浅茅が露にかかるささがに
かけまくも畏けれどもそのかみの秋思ほゆる木綿襷かな
そのかみやいかがはありし木綿襷心にかけて忍ぶらんゆゑ
九重に霧や隔つる雲の上の月をはるかに思ひやるかな
月影は見し世の秋に変はらねど隔つる霧のつらくもあるかな
木枯しの吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさの頃も経にけり
あひ見ずて忍ぶる頃の涙をもなべての秋のしぐれとや見る
別れにし今日は来れども見し人に行き逢ふほどをいつと頼まん
ながらふるほどは憂けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地して
月のすむ雲井をかけてしたふともこのよの闇になほや惑はん
大方の憂きにつけては厭へどもいつかこの世を背きはつべき
ながめかる海人の住処と見るからにまづしほたるる松が浦島
ありし世の名残りだになき浦島に立ちよる波のめづらしきかな
それもがと今朝開けたる初花に劣らぬ君がにほひをぞ見る
時ならで今朝咲く花は夏の雨に萎れにけらし匂ふほどなく
花散里(4)
をちかへりえぞ忍ばれぬ杜鵑ほの語らひし宿の垣根に
ほととぎす語らふ声はそれながらあなおぼつかな五月雨の空
橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪ねてぞとふ
人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ
VIDEO
桐壺
紫のかがやく花と日の光思ひあはざることわりもなし
帚木
中川の皐月の水に人似たりかたればむせびよればわななく
空蝉
うつせみのわがうすごろも風流男に馴れてぬるやとあぢきなきころ
夕顔
うき夜半の悪夢と共になつかしきゆめもあとなく消えにけるかな
若紫
春の野のうらわか草に親しみていとおほどかに恋もなりぬる
末摘花
皮ごろも上に着たれば我妹子は聞くことのみな身に沁まぬらし
紅葉賀
青海の波しづかなるさまを舞ふ若き心は下に鳴れども
花宴
春の夜のもやにそひたる月ならん手枕かしぬ我が仮ぶしに
葵
恨めしと人を目におくこともこそ身のおとろへにほかならぬかな
榊
五十鈴川神のさかひへのがれきぬおもひあがりしひとの身のはて
花散里
橘も恋のうれひも散りかへば香をなつかしみほととぎす鳴く
須磨
人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行くべき身かと思ひぬ
明石
わりなくもわかれがたしとしら玉の涙をながす琴のいとかな
澪標
みをつくし逢はんと祈るみてぐらもわれのみ神にたてまつるらん
蓬生
道もなき蓬をわけて君ぞこし誰にもまさる身のここちする
関屋
逢坂は関の清水も恋人のあつき涙もながるるところ
絵合
あひがたきいつきのみことおもひてきさらに遥かになりゆくものを
松風
あぢきなき松の風かな泣けばなき小琴をとればおなじ音を弾く
薄雲
さくら散る春の夕のうすぐもの涙となりて落つる心地に
朝顔
みづからはあるかなきかのあさがほと言ひなす人の忘られぬかな
乙女
雁なくやつらをはなれてただ一つ初恋をする少年のごと
玉鬘
火のくににおひいでたれば言ふことの皆恥づかしく頬の染まるかな
初音
若やかにうぐひすぞ啼く初春の衣くばられし一人のやうに
胡蝶
盛りなる御代の后に金の蝶しろがねの鳥花たてまつる
蛍
身にしみて物を思へと夏の夜の蛍ほのかに青引きてとぶ
常夏
露置きてくれなゐいとど深けれどおもひ悩めるなでしこの花
篝火
大きなるまゆみのもとに美しくかがり火もえて涼風ぞ吹く
野分
けざやかにめでたき人ぞ在ましたる野分が開くる絵巻のおくに
御幸
雪ちるや日よりかしこくめでたさも上なき君の玉のおん輿
藤袴
むらさきのふぢばかまをば見よといふ二人泣きたきここち覚えて
真木柱
こひしさも悲しきことも知らぬなり真木の柱にならまほしけれ
梅が枝
天地に春新しく来たりけり光源氏のみむすめのため
藤のうら葉
ふぢばなのもとの根ざしは知らねども枝をかはせる白と紫
若菜
たちまちに知らぬ花さくおぼつかな天よりこしをうたがはねども
二ごころたれ先づもちてさびしくも悲しき世をば作り初めけん
柏木
死ぬる日を罪むくいなど言ふきはの涙に似ざる火のしづくおつ
横笛
亡き人の手なれの笛に寄りもこし夢のゆくへの寒き夜半かな
鈴虫
すずむしは釈迦牟尼仏のおん弟子の君のためにと秋を浄むる
夕霧
つま戸より清き男の出づるころ後夜の律師のまう上るころ
帰りこし都の家に音無しの滝はおちねど涙流るる
御法
なほ春のましろき花と見ゆれどもともに死ぬまで悲しかりけり
まぼろし
大空の日の光さへつくる世のやうやく近きここちこそすれ
雲隠れ
かきくらす涙か雲かしらねどもひかり見せねばかかぬ一章
匂宮
春の日の光の名残花ぞのに匂ひ薫ると思ほゆるかな
紅梅
うぐひすも問はば問へかし紅梅の花のあるじはのどやかに待つ
竹河
姫たちは常少女にて春ごとに花あらそひをくり返せかし
橋姫
しめやかにこころの濡れぬ川霧の立ちまふ家はあはれなるかな
椎が本
朝の月涙のごとくましろけれ御寺の鐘の水渡る時
総角
心をば火の思ひもて焼かましと願ひき身をば煙にぞする
早蕨
早蕨の歌を法師す君に似ずよき言葉をば知らぬめでたさ
宿り木
あふけなく大御むすめをいにしへの人に似よとも思ひけるかな
東屋
ありし世の霧来て袖を濡らしけりわりなけれども宇治近づけば
浮舟
何よりも危ふきものとかねて見し小舟の中にみづからを置く
蜻蛉
ひと時は目に見しものをかげろふのあるかなきかを知らぬはかなき
手習
ほど近き法の御山をたのみたる女郎花かと見ゆるなりけれ
夢の浮橋
明けくれに昔こひしきこころもて生くる世もはたゆめのうきはし