第一巻
つばさこそ重ぬることの叶はずと
着てだに慣れよ鶴の毛衣
よそながら慣れてはよしや小夜衣
いとど袂の朽ちもこそすれ
契りおきし心の末の変らずは
一人方敷け夜半の狭衣
あまた年さすがに慣れし小夜衣
重ねぬ袖に残る移り香
今よりや思ひ消えなん一方に
煙の末のなびき果てなば
知られじな思ひ乱れて夕煙
なびきもやらぬ下の心は
心よりほかに解けぬる下紐の
いかなる節に憂き名流さん
鐘の音におどろくとしもなき夢の
名残も悲し有明の空
かくまで思ひおこせじ人知れず
見せばや袖にかかる涙を
われ故の思ひならねど小夜衣
涙の聞けば濡るる袖かな
別れても三世の契りのありと聞けば
なほ行く末をたのむばかりぞ
このたびは憂き世のほかにめぐりあはん
待つ暁の有明の空
わが袖の涙の海よ三瀬河に
流れて通へ影をだに見ん
さらでだに秋は露けき袖の上に
昔を恋ふる涙添ふらん
思へたださらでも濡るる袖の上に
かかる別れの秋の白露
別れしも今朝の名残をとり添へて
置き重ねめる袖の露かな
名残とはいかが思はん別れにし
袖の露こそひまなかるらめ
忍びあまりただうたたねの手枕に
露かかりきと人や咎むる
秋の露はなべて草木に置くものを
袖にのみとは誰か咎めん
帰るさは涙にくれて有明の
月さへつらき東雲の空
帰るさの袂は知らず面影は
袖の涙に有明の空
秋の露冬の時雨にうち添へて
しぼり重ぬるわが袂かな
思ひやれ過ぎにし秋の露にまた
涙しぐれて濡るる袂を
重ねける露のあはれもまだ知らで
今こそよその袖もしをるれ
君だにもならはざりける有明の
面影残る袖を見せばや
うば玉の夢にぞ見つる小夜衣
あらぬ袂を重ねけりとは
ひとりのみ方敷きかぬる袂には
月の光ぞ宿り重ぬる
風吹けば花の白浪岩越えて
渡りわづらふ山川の水
知られじな今しも見つる面影の
やがて心にかかりけりとは
第二巻
いかにせんうつつともなき面影を
夢と思へば覚むる間もなし
うつつとも夢ともよしや桜花
吹き散る程と常ならぬ世に
樒摘む暁起きに袖濡れて
見果てぬ夢の末ぞゆかしき
うつつとも夢ともいまだ分きかねて
悲しさ残る秋の夜の月
伏見山幾万代か栄ふべき
緑の小松今日をはじめに
栄ふべき程ぞ久しき伏見山
老いそふ松の知世をかさねて
数ならぬ身の世語りを思ふにも
なほくやしきは夢の通ひ路
悲しとも憂しとも言はん方ぞなき
かばかり見つる人の面影
変るらん心はいさや白渚の
移ろふ色はよそにこそ見れ
今よりは絶えぬと見ゆる水茎の
跡を見るには袖ぞしをるる
数ならぬ憂き身を知れば四つの緒も
この世の外に思ひ切りつつ
この世には思ひ切りぬる四つの緒の
形見や法の水茎の跡
はかなくも世のことわりは忘られて
つらさに堪へぬわが袂かな
よしさらばこれもなべてのならひぞと
思ひなすべき世のつらさかは
世の憂さも思ひつきぬる鐘の音を
月にかこちて有明の空
鐘の音に憂さもつらさも立ち添へて
名残を残す有明の月
わが袖の涙言問へ時鳥
かかる思ひの有明の空
短夜の夢の面影さめやらで
心に残る袖の移り香
夢とだになほわきかねて人知れず
押ふる袖の色を見せばや
第三巻
つらしとて別れしままの面影を
あらぬ涙にまた宿しつる
憂しと思ふ心に似たる根やあると
尋ぬるほどに濡るる袖かな
憂き根をば心の外にかけそへて
いつも袂の乾く間ぞなき
絶えぬるか人の心の忘れ水
あひも思はぬ中の契りに
契りこそさても絶えけめ涙河
心の末はいつも乾かじ
わが袖の涙に宿る有明の
明けても同じ面影もがな
わが身こそいつも涙の隙なきに
何を偲びて鹿の鳴くらん
荒れにける葎の宿の板庇
さすが離れぬ心地こそすれ
あはれとて訪はるることもいつまでと
思へば悲し庭の蓬生
あくがるるわが魂は留め置きぬ
何の残りて物思ふらん
物思ふ涙の色をくらべばや
げに誰か袖かしをれまさると
身はかくて思ひ消えなん烟だに
そなたの空になびきだにせば
思ひ消えた烟の末をそれとだに
ながらへばこそ跡をだに見ぬ
浮き沈み三瀬川にも逢ふ瀬あらば
身を捨ててもや尋ね行かまし
面影も名残もさこそ残るらめ
雲隠れぬる有明の月
数ならめ身の憂きことも面影も
一方にやは有明の月
この度は待つ暁のしるべせよ
さても絶えぬる契りなりとも
月を待つ暁までの遥かさに
今入りし日の影ぞ悲しき
面影をさのみもいかが恋ひ渡る
憂き世を出でし有明の月
恋ひ忍ぶ袖の涙や大井川
逢ふ瀬ありせば身をや捨てまし
尋ぬべき人も渚に生ひそめし
松はいかなる契りなるらん
いつもただ神に頼みを木綿襷
かくる甲斐なき身をぞ恨むる
折々の鐘の響きに音を添へて
何と憂き世になほ残るらん
神垣に千本の桜花咲かば
植ゑ置く人の身も栄えなん
根なくとも色には出でよ桜花
契る心は神ぞ知るらん
かねてより数に漏れぬと聞きしかば
思ひも寄らぬ和歌の浦波
行く末をなほ長き世と契るかな
三月に移る今日の春日に
百色と今や鳴くらん鶯の
九返りの君が春経て
限りなき齢は今は九十
なほ千世遠き春にもあるかな
代々のあとになほ立ちのぼる老いの波
寄りけん年は今日のためかも
かき絶えてあられやするとこころみに
積る月日をなどか恨みぬ
かくて世にありと聞かるる身の憂さを
恨みてのみぞ年は経にける
第四巻
行く人の心を留むる桜かな
花や関守逢坂の山
立ち寄りて見るとも知らじ鏡山
心の中に残る面影
思ひ立つ心は何の色ぞとも
富士の煙の末ぞゆかしき
富士の嶺は恋を駿河の山なれば
思ひありとぞ煙立つらん
われはなほ蜘蛛手に物を思へども
その八橋は跡だにもなし
春の色も三月の空に鳴海潟
今行くほどか花も群
神はなほあはれをかけよ御注連繩
引き違へたる憂き身なりとも
言の葉もしげしと聞きし蔦はいづら
夢にだに見ず宇津の山越え
杉の庵松の柱に篠すだれ
憂き世の中をかけ離ればや
思ひ出づる甲斐こそなけれ石清水
同じ流れの末もなき身は
ただ頼め心の注連の引く方に
神もあはれはさこそかくらめ
五十鈴川同じ流れを忘れずは
いかにあはれと神も見るらん
思ひやれ憂き事積る白雪の
跡なき庭に消えかへる身を
雲の上に見しもなかなか月ゆゑの
身の思ひ出は今宵なりけり
隈もなき月になり行く眺めにも
なほ面影は忘れやはする
尋ね来し甲斐こそなけれ隅田川
住みけん鳥の跡だにもなし
旅の空涙にくれて行く袖を
言問ふ雁の声ぞ悲しき
わが袖にありけるものを涙川
しばし止れと言はぬ契りに
着てだにも身をば放つな旅衣
さこそよそなる契りなりとも
乾さざりしその濡衣も今はいとど
恋ひく涙に朽ちぬべきかな
越え行くも苦しかりけり命ありと
また訪はましや小夜中山
九重の外に移ろふ身にしあれば
都はよそに菊の白露
重ねしも昔になりぬ恋衣
今は涙に黒染の袖
おしなべて塵にまじはる末とてや
苔の袂に情かくらん
影宿す山田の杉の末葉さへ
人をも分かぬ誓ひとを知れ
世を厭ふ同じ袂の黒染を
いかなる色と思ひ捨つらん
今ぞ思ふ道行く人は慣れぬるも
悔しかりける和歌の浦波
何か思ふ道行く人にあらずとも
止まり果つべき世のならひかは
何となく都と聞けばなつかしみ
そぞろに袖をまた濡らすかな
忘られぬ昔を問へば悲しさも
答へやるべき言の葉ぞなき
思ひそめし心の色の変らねば
千代とぞ君をなほ祈りつる
月をなど外の光と隔つらん
さこそ朝日の影にすむとも
すむ月をいかが隔てん槇の戸を
開けぬは老いの眠なりけり
忘れじな清き渚に澄む月の
明け行く空に残る面影
思へただ慣れし雲居の夜半の月
外にすむにも忘れやはする
あり果てん身の行く末のしるべせよ
憂き世の中を度会の宮
行く末も久しかるべき君が代に
また帰り来ん九月の頃
神垣にまつも久しき契りかな
千年の秋の九月の頃
立ち帰る波路と聞けば袖濡れて
よそに鳴海の蒲の名ぞ憂き
かねてよりよそに鳴海の契りなれど
帰る波には濡るる袖かな
鹿の音にまたうち添へて鐘の音の
涙言問ふ暁の空
第五巻
いさやその幾夜明石の泊りとも
かねてはえこそ思ひ定めね
物思ふ身の憂きことを思ひ出でば
苔の下にもあはれとは身よ
手になれし昔の影は残らねど
形身と見れば濡るる袖かな
月出でん暁までの形見ぞと
など同じくは契らざりけん
世を厭ふならひながらも竹簀垣
憂き節々は冬ぞ悲しき
霞こそ立ち隔つとも桜花
風のつてには思ひおこせよ
花のみが忘るる間なき言の葉を
心は行きて語らざりけり
さてもかく数ならぬ身は永らへて
今はと見つる夢ぞ悲しき
夢ならでいかでか知らんかくばかり
われのみ袖にかくる涙を
君故にわれ先立たばおのづから
夢には見えよ跡の白露
あだし野の草葉の露の跡とふと
行きかふ人もあはれいつまで
隈もなき月さへつらき今宵かな
曇らばいかにうれしからまし
露消えし後の御幸の悲しさに
昔に帰るわが袂かな
黒染の袖は染むべき色ぞなき
思ひは一つ思ひなれども
春来てし霞の袖に秋霧の
たち重ぬらん色ぞ悲しき
悲しさのたぐひとぞ聞く虫の音も
老いの寝覚の九月の頃
いづ方の雲路ぞとだに尋ね行く
など幻のなき世なるらん
二親の形見と見つる玉櫛笥
今日別れ行くことぞ悲しき
いかにして死出の山路を尋ねみん
もし亡き魂の影やとまると
峯の鹿野原の虫の声までも
同じ涙の友とこそ聞け
つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ
十づつ三つ余るまで
古りにける名こそ惜しけれ和歌の浦に
身はいたづらに海人の捨舟
なほもただかきとめてみよ藻塩草
人をも分かず情ある世に
契りありて竹の末葉にかけし名の
空しき節にさて残れとや
する墨は涙の海に入りぬとも
流れん末に逢ふ世あらせよ
いつとなく乾く間もなき袂かな
涙も今日を果とこそ聞け
物思ふ袖の涙を幾入と
せめてはよそに人の問へかし
あまた年慣れし形見の小夜衣
今日を限りと見るぞ悲しき
夢覚むる枕に残る有明に
涙ともなふ滝の音かな
花はさてもあだにや風の誘ひけん
契りし程の日数ならねば
その花は風にいがか誘はせん
契りし程は隔て行くとも
露消えし後の形見の面影に
また改まる袖の露かな
虫の音も月も一つに悲しさの
残る隈なき夜半の面影
都だに秋のけしきを知らるるを
幾夜伏見の有明の月
秋を経て過ぎにし御代も伏見山
またあはれ添ふ有明の空
さぞなげに昔を今と偲ぶらん
伏見の里の秋のあはれに
思ひきや君が三年の秋の露
まだ乾ぬ袖にかけんものとは