2021年4月9日金曜日

『源氏物語』紫式部日記 1


 

桐壺(9)

 

限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 

宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩が上を思ひこそやれ

 

鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽かず降る涙かな

 

いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人

 

荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩が上ぞしづ心無き

 

尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく

 

雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿

 

いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや

 

結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色しあせずば

 

帚木(7)

 

手を折りて相見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし

 

うき節を心一つに数へきてこや君が手を別るべきをり

 

つれなさを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで驚かすらん

 

身の憂さを歎くにあかで明くる夜はとり重ねても音ぞ泣かれける

 

見し夢を逢あふ夜あやと歎く間に目さへあはでぞ頃も経にける

 

帚木の心を知らでその原の道にあやなくまどひぬるかな

 

数ならぬ伏屋におふる身のうさにあるにもあらず消ゆる帚木

 

空蝉(2)

 

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな

 

うつせみの羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな

 

夕顔(19)

 

心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花

 

寄りてこそそれかとも見め黄昏れにほのぼの見つる花の夕顔

 

咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎうき今朝の朝顔

 

朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る

 

優婆塞が行なふ道をしるべにて来ん世も深き契りたがふな

 

前の世の契り知らるる身のうさに行く末かけて頼みがたさよ

 

いにしへもかくやは人の惑ひけんわがまだしらぬしののめの道

 

山の端の心も知らず行く月は上の空にて影や消えなん

 

夕露にひもとく花は玉鉾のたよりに見えし縁こそありけれ

 

光ありと見し夕顔のうは露は黄昏時のそら目なりけり

 

見し人の煙を雲とながむれば夕の空もむつまじきかな

 

問はぬをもなどかと問はで程ふるにいかばかりかは思ひ乱るる

 

うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ

 

ほのかにも軒ばの荻をむすばずば露のかごとを何にかけまし

 

ほのめかす風につけても下荻の半は霜にむすぼほれつつ

 

泣く泣くも今日はわが結ふ下紐をいづれの世にか解けて見るべき

 

逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな

 

蝉の羽もたち変へてける夏ごろもかへすを見ても音は泣かれけり

 

過ぎにしも今日別るるも二みちに行く方知らぬ秋の暮かな

 

若紫(25)

 

生ひ立たんありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき

 

初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えんとすらん

 

初草の若葉の上を見つるより旅寝の袖も露ぞ乾かぬ

 

枕結ふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざらなん

 

吹き迷ふ深山おろしに夢さめて涙催す滝の音かな

 

さしぐみに袖濡らしける山水にすめる心は騒ぎやはする

 

宮人に行きて語らん山ざくら風よりさきに来ても見るべく

 

優曇華の花まち得たるここちして深山桜に目こそ移らね

 

奥山の松の戸ぼそを稀に開けてまだ見ぬ花の顔を見るかな

 

夕まぐれほのかに花の色を見て今朝は霞の立ちぞわづらふ

 

まことにや花のほとりは立ち憂きと霞むる空のけしきをも見ん

 

面かげは身をも離れず山ざくら心の限りとめてこしかど

 

嵐吹く尾上のさくら散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ

 

浅香山浅くも人を思はぬになど山の井のかけ離るらん

 

汲み初めてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影を見すべき

 

見てもまた逢ふ夜稀なる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな

 

世語りに人やつたへん類ひなく憂き身をさめぬ夢になしても

 

いはけなき鶴の一声聞きしより葦間になづむ船ぞえならぬ

 

手に摘みていつしかも見ん紫の根に通ひける野辺の若草

 

あしわかの浦にみるめは難くともこは立ちながら帰る波かは

 

寄る波の心も知らで和歌の浦に玉藻なびかんほどぞ浮きたる

 

朝ぼらけ霧立つ空の迷ひにも行き過ぎがたき妹が門かな

 

立ちとまり霧の籬の過ぎうくば草の戸ざしに障りしもせじ

 

ねは見ねど哀れとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを

 

かこつべき故を知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん

 

末摘花(14)

 

もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいざよひの月

 

里分かぬかげを見れども行く月のいるさの山を誰かたづぬる

 

いくそ度君が沈黙に負けぬらん物な云ひそと云はぬ頼みに

 

鐘つきてとぢめんことはさすがにて答へまうきぞかつはあやなき

 

云はぬをも云ふに勝ると知りながら押しこめたるは苦しかりけり

 

夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさ添ふる宵の雨かな

 

晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ同じ心にながめせずとも

 

朝日さす軒のたるひは解けながらなどかつららの結ぼほるらん

 

ふりにける頭の雪を見る人も劣らずぬらす朝の袖かな

 

唐衣君が心のつらければ袂はかくぞそぼちつつのみ

 

なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖に触れけん

 

くれなゐのひとはな衣うすくともひたすら朽たす名をし立てずば

 

逢はぬ夜を隔つる中の衣手でに重ねていとど身も沁みよとや

 

くれなゐの花ぞあやなく疎まるる梅の立枝はなつかしけれど

 

紅葉賀(17)

 

物思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うち振りし心知りきや

 

から人の袖ふることは遠けれど起ち居につけて哀れとは見き

 

いかさまに昔結べる契りにてこの世にかかる中の隔てぞ

 

見ても思ふ見ぬはたいかに歎くらんこや世の人の惑ふてふ闇

 

よそへつつ見るに心も慰まで露けさまさる撫子の花

 

袖濡るる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまと撫子

 

君し来ば手馴の駒に刈り飼はん盛り過ぎたる下葉なりとも

 

笹分けば人や咎めんいつとなく駒馴らすめる森の木隠れ

 

立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨そそぎかな

 

人妻はあなわづらはし東屋のまやのあまりも馴れじとぞ思ふ

 

包むめる名や洩り出でん引きかはしかくほころぶる中の衣に

 

隠れなきものと知る知る夏衣きたるをうすき心とぞ見る

 

恨みても云ひがひぞなき立ち重ね引きて帰りし波のなごりに

 

荒だちし波に心は騒がねどよせけん磯をいかが恨みぬ

 

中絶えばかごとや負ふと危ふさに縹の帯はとりてだに見ず

 

君にかく引き取られぬる帯なればかくて絶えぬる中とかこたん

 

つきもせぬ心の闇にくるるかな雲井に人を見るにつけても

 

花宴(8)

 

大かたに花の姿を見ましかばつゆも心のおかれましやは

 

深き夜の哀れを知るも入る月のおぼろげならぬ契りとぞ思ふ

 

うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば訪はじとや思ふ

 

何れぞと露のやどりをわかむ間に小笹が原に風もこそ吹け

 

世に知らぬここちこそすれ有明の月の行方を空にまがへて

 

わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君を待たまし

 

あづさ弓いるさの山にまどふかなほの見し月の影や見ゆると

 

心いる方なりませば弓張の月なき空に迷はましやは

 

葵(24)

 

影をのみみたらし川のつれなさに身のうきほどぞいとど知らるる

 

はかりなき千尋の底の海松房の生ひ行く末はわれのみぞ見ん

 

千尋ともいかでか知らん定めなく満ち干る潮ののどけからぬに

 

はかなしや人のかざせるあふひ故神のしるしの今日を待ちける

 

かざしける心ぞ仇に思ほゆる八十氏人になべてあふひを

 

くやしくも挿しけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを

 

袖濡るるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子の自らぞ憂き

 

あさみにや人は下り立つわが方は身もそぼつまで深きこひぢを

 

歎きわび空に乱るるわが魂を結びとめてよ下がひの褄

 

昇りぬる煙はそれと分かねどもなべて雲井の哀れなるかな

 

限りあればうす墨衣浅けれど涙ぞ袖を淵となしける

 

人の世を哀れときくも露けきにおくるる露を思ひこそやれ

 

とまる身も消えしも同じ露の世に心置くらんほどぞはかなき

 

雨となりしぐるる空の浮き雲をいづれの方と分きてながめん

 

見し人の雨となりにし雲井さへいとど時雨に掻きくらす頃

 

草枯れの籬に残る撫子を別れし秋の形見とぞ見る

 

今も見てなかなか袖を濡らすかな垣ほあれにしやまと撫子

 

わきてこの暮こそ袖は露けけれ物思ふ秋はあまた経ぬれど

 

秋霧に立ちおくれぬと聞きしより時雨るる空もいかがとぞ思ふ

 

亡き魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに

 

君なくて塵積もりぬる床なつの露うち払ひいく夜寝ぬらん

 

あやなくも隔てけるかな夜を重ねさすがに馴れし中の衣を

 

あまたとし今日改めし色ごろもきては涙ぞ降るここちする

 

新しき年ともいはず降るものはふりぬる人の涙なりけり

 

榊(33)

 

神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ

 

少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ

 

暁の別れはいつも露けきをこは世にしらぬ秋の空かな

 

大方の秋の別れも悲しきに鳴く音な添へそ野辺の松虫

 

八洲もる国つ御神もこころあらば飽かぬ別れの中をことわれ

 

国つ神空にことわる中ならばなほざりごとを先づやたださん

 

そのかみを今日はかけじと思へども心のうちに物ぞ悲しき

 

ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖は濡れじや

 

鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢までたれか思ひおこせん

 

行くかたをながめもやらんこの秋は逢坂山を霧な隔てそ

 

蔭ひろみ頼みし松や枯れにけん下葉散り行く年の暮かな

 

さえわたる池の鏡のさやけさに見なれし影を見ぬぞ悲しき

 

年暮れて岩井の水も氷とぢ見し人影のあせも行くかな

 

心からかたがた袖を濡らすかな明くと教ふる声につけても

 

嘆きつつ我が世はかくて過ぐせとや胸のあくべき時ぞともなく

 

逢ふことの難きを今日に限らずばなほ幾世をか歎きつつ経ん

 

長き世の恨みを人に残してもかつは心をあだとしらなん

 

あさぢふの露の宿りに君を置きて四方の嵐ぞしづ心なき

 

風吹けば先づぞ乱るる色かはる浅茅が露にかかるささがに

 

かけまくも畏けれどもそのかみの秋思ほゆる木綿襷かな

 

そのかみやいかがはありし木綿襷心にかけて忍ぶらんゆゑ

 

九重に霧や隔つる雲の上の月をはるかに思ひやるかな

 

月影は見し世の秋に変はらねど隔つる霧のつらくもあるかな

 

木枯しの吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさの頃も経にけり

 

あひ見ずて忍ぶる頃の涙をもなべての秋のしぐれとや見る

 

別れにし今日は来れども見し人に行き逢ふほどをいつと頼まん

 

ながらふるほどは憂けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地して

 

月のすむ雲井をかけてしたふともこのよの闇になほや惑はん

 

大方の憂きにつけては厭へどもいつかこの世を背きはつべき

 

ながめかる海人の住処と見るからにまづしほたるる松が浦島

 

ありし世の名残りだになき浦島に立ちよる波のめづらしきかな

 

それもがと今朝開けたる初花に劣らぬ君がにほひをぞ見る

 

時ならで今朝咲く花は夏の雨に萎れにけらし匂ふほどなく

 

花散里(4)

 

をちかへりえぞ忍ばれぬ杜鵑ほの語らひし宿の垣根に

 

ほととぎす語らふ声はそれながらあなおぼつかな五月雨の空

 

橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪ねてぞとふ

 

人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ

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