2021年4月9日金曜日

『源氏物語』紫式部 2


 

須磨(48)

 

鳥部山燃えし煙もまがふやと海人の塩焼く浦見にぞ行く

 

亡き人の別れやいとど隔たらん煙となりし雲井ならでは

 

身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡のかげははなれじ

 

別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし

 

月影の宿れる袖は狭くともとめてぞ見ばや飽かぬ光を

 

行きめぐりつひにすむべき月影のしばし曇らん空なながめそ

 

逢瀬なき涙の川に沈みしや流るるみをの初めなりけん

 

涙川浮ぶ水沫も消えぬべし別れてのちの瀬をもまたずて

 

見しは無く有るは悲しき世のはてを背きしかひもなくなくぞ経る

 

別れしに悲しきことは尽きにしをまたもこの世の憂さは勝れる

 

ひきつれて葵かざせしそのかみを思へばつらし加茂のみづがき

 

うき世をば今ぞ離るる留まらん名をばただすの神に任せて

 

亡き影やいかで見るらんよそへつつ眺むる月も雲隠れぬる

 

いつかまた春の都の花を見ん時うしなへる山がつにして

 

咲きてとく散るは憂けれど行く春は花の都を立ちかへり見よ

 

生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな

 

惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしがな

 

唐国に名を残しける人よりもゆくへ知られぬ家居をやせん

 

ふる里を峯の霞は隔つれど眺むる空は同じ雲井か

 

松島のあまの苫屋もいかならん須磨の浦人しほたるる頃

 

こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん

 

しほたるることをやくにて松島に年経るあまもなげきをぞ積む

 

浦にたくあまたにつつむ恋なれば燻る煙よ行く方ぞなき

 

浦人の塩汲む袖にくらべ見よ波路隔つる夜の衣を

 

うきめかる伊勢をの海人を思ひやれもしほ垂るてふ須磨の浦にて

 

伊勢島や潮干のかたにあさりても言ふかひなきはわが身なりけり

 

伊勢人の波の上漕ぐ小船にもうきめは刈らで乗らましものを

 

あまがつむ歎きの中にしほたれて何時まで須磨の浦に眺めん

 

荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ繁くも露のかかる袖かな

 

恋ひわびて泣く音に紛ふ浦波は思ふ方より風や吹くらん

 

初雁は恋しき人のつらなれや旅の空飛ぶ声の悲しき

 

かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はそのよの友ならねども

 

心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな

 

常世出でて旅の空なるかりがねも列に後れぬほどぞ慰む

 

見るほどぞしばし慰むめぐり合はん月の都ははるかなれども

 

憂しとのみひとへに物は思ほえで左右にも濡るる袖かな

 

琴の音にひきとめらるる綱手縄たゆたふ心君知るらめや

 

心ありてひくての綱のたゆたはば打ち過ぎましや須磨の浦波

 

山がつの庵に焚けるしばしばも言問ひ来なむ恋ふる里人

 

何方の雲路にわれも迷ひなん月の見るらんことも恥かし

 

友千鳥諸声に鳴く暁は一人寝覚めの床も頼もし

 

いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり

 

故郷を何れの春か行きて見ん羨ましきは帰るかりがね

 

飽かなくに雁の常世を立ち別れ花の都に道やまどはん

 

雲近く飛びかふ鶴も空に見よわれは春日の曇りなき身ぞ

 

たづかなき雲井に独り音をぞ鳴く翅並べし友を恋ひつつ

 

知らざりし大海の原に流れ来て一方にやは物は悲しき

 

八百よろづ神も憐れと思ふらん犯せる罪のそれとなければ

 

明石(30)

 

浦風やいかに吹くらん思ひやる袖うち濡らし波間なき頃

 

海にます神のたすけにかからずば潮の八百会にさすらへなまし

 

はるかにも思ひやるかな知らざりし浦より遠に浦づたひして

 

泡と見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月

 

ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのうら寂しさを

 

旅衣うら悲しさにあかしかね草の枕は夢も結ばず

 

遠近もしらぬ雲井に眺めわびかすめし宿の梢をぞとふ

 

眺むらん同じ雲井を眺むるは思ひも同じ思ひなるらん

 

いぶせくも心に物を思ふかなやよやいかにと問ふ人もなみ

 

思ふらん心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きか悩まん

 

秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる雲井に駈けれ時の間も見ん

 

むつ言を語りあはせん人もがなうき世の夢もなかば覚むやと

 

明けぬ夜にやがてまどへる心には何れを夢と分きて語らん

 

しほしほと先づぞ泣かるるかりそめのみるめは海人のすさびなれども

 

うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと

 

このたびは立ち別るとも藻塩焼く煙は同じ方になびかん

 

かきつめて海人の焼く藻の思ひにも今はかひなき恨みだにせじ

 

なほざりに頼めおくめる一ことをつきせぬ音にやかけてしのばん

 

逢ふまでのかたみに契る中の緒のしらべはことに変はらざらなん

 

うち捨てて立つも悲しき浦波の名残いかにと思ひやるかな

 

年経つる苫屋も荒れてうき波の帰る方にや身をたぐへまし

 

寄る波にたち重ねたる旅衣しほどけしとや人のいとはん

 

かたみにぞかふべかりける逢ふことの日数へだてん中の衣を

 

世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸をえこそ離れね

 

都出でし春の歎きに劣らめや年ふる浦を別れぬる秋

 

わたつみに沈みうらぶれひるの子の足立たざりし年は経にけり

 

宮ばしらめぐり逢ひける時しあれば別れし春の恨み残すな

 

歎きつつ明石の浦に朝霧の立つやと人を思ひやるかな

 

須磨の浦に心を寄せし船人のやがて朽たせる袖を見せばや

 

かへりてはかごとやせまし寄せたりし名残に袖の乾がたかりしを

 

澪標(17)

 

かねてより隔てぬ中とならはねど別れは惜しきものにぞありける

 

うちつけの別れを惜しむかごとにて思はん方に慕ひやはせぬ

 

いつしかも袖うちかけんをとめ子が世をへて撫でん岩のおひさき

 

一人して撫づるは袖のほどなきに覆ふばかりの蔭をしぞ待つ

 

思ふどち靡く方にはあらずとも我ぞ煙に先立ちなまし

 

たれにより世をうみやまに行きめぐり絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ

 

海松や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかにわくらん

 

数ならぬみ島がくれに鳴く鶴を今日もいかにと訪ふ人ぞなき

 

水鶏だに驚かさずばいかにして荒れたる宿に月を入れまし

 

おしなべてたたく水鶏に驚かばうはの空なる月もこそ入れ

 

住吉の松こそものは悲しけれ神代のことをかけて思へば

 

荒かりし浪のまよひに住吉の神をばかけて忘れやはする

 

みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひける縁は深しな

 

数ならでなにはのこともかひなきに何みをつくし思ひ初めけん

 

露けさの昔に似たる旅衣田蓑の島の名には隠れず

 

降り乱れひまなき空に亡き人の天がけるらん宿ぞ悲しき

 

消えがてにふるぞ悲しきかきくらしわが身それとも思ほえぬ世に

 

蓬生(6)

 

絶ゆまじきすぢを頼みし玉かづら思ひのほかにかけ離れぬる

 

玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけて誓はん

 

亡き人を恋ふる袂のほどなきに荒れたる軒の雫さへ添ふ

 

尋ねてもわれこそ訪はめ道もなく深き蓬のもとの心を

 

藤波の打ち過ぎがたく見えつるはまつこそ宿のしるしなりけれ

 

年を経て待つしるしなきわが宿は花のたよりに過ぎぬばかりか

 

関屋(3)

 

行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらん

 

わくらはに行き逢ふみちを頼みしもなほかひなしや塩ならぬ海

 

逢坂の関やいかなる関なれば繁きなげきの中を分くらん

 

絵合(9)

 

別れ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき中と神やいさめし

 

別るとてはるかに言ひしひと言もかへりて物は今ぞ悲しき

 

一人居て眺めしよりは海人の住むかたを書きてぞ見るべかりける

 

うきめ見しそのをりよりは今日はまた過ぎにし方に帰る涙か

 

伊勢の海の深き心をたどらずて古りにし跡と波や消つべき

 

雲の上に思ひのぼれる心には千尋の底もはるかにぞ見る

 

見るめこそうらぶれぬらめ年経にし伊勢をの海人の名をや沈めん

 

身こそかくしめの外なれそのかみの心のうちを忘れしもせず

 

しめのうちは昔にあらぬここちして神代のことも今ぞ恋しき

 

松風(16)

 

行くさきをはるかに祈る別れ路にたへぬは老いの涙なりけり

 

もろともに都は出できこのたびや一人野中の道に惑はん

 

いきてまた逢ひ見んことをいつとてか限りも知らぬ世をば頼まん

 

かの岸に心寄りにし海人船のそむきし方に漕ぎ帰るかな

 

いくかへり行きかふ秋を過ごしつつ浮き木に乗りてわれ帰るらん

 

身を変へて一人帰れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く

 

ふるさとに見し世の友を恋ひわびてさへづることを誰か分くらん

 

住み馴れし人はかへりてたどれども清水ぞ宿の主人がほなる

 

いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人や面変はりせる

 

契りしに変はらぬ琴のしらべにて絶えぬ心のほどは知りきや

 

変はらじと契りしことを頼みにて松の響に音を添へしかな

 

月のすむ川の遠なる里なれば桂の影はのどけかるらん

 

久方の光に近き名のみして朝夕霧も晴れぬ山ざと

 

めぐりきて手にとるばかりさやけきや淡路の島のあはと見し月

 

浮き雲にしばしまがひし月影のすみはつるよぞのどけかるべき

 

雲の上の住みかを捨てて夜半の月いづれの谷に影隠しけん

 

薄雲(10)

 

雪深き深山のみちは晴れずともなほふみ通へ跡たえずして

 

雪間なき吉野の山をたづねても心の通ふ跡絶えめやは

 

末遠き二葉の松に引き分かれいつか木高きかげを見るべき

 

生ひ初めし根も深ければ武隈の松に小松の千代を並べん

 

船とむる遠方人のなくばこそ明日帰りこん夫とまち見め

 

行きて見て明日もさねこんなかなかに遠方人は心おくとも

 

入り日さす峯にたなびく薄雲は物思ふ袖に色やまがへる

 

君もさは哀れをかはせ人知れずわが身にしむる秋の夕風

 

いさりせしかげ忘られぬ篝火は身のうき船や慕ひ来にけん

 

浅からぬ下の思ひを知らねばやなほ篝火の影は騒げる

 

朝顔(13)

 

人知れず神の許しを待ちしまにここらつれなき世を過ぐすかな

 

なべて世の哀ればかりを問ふからに誓ひしことを神やいさめん

 

見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん

 

秋はてて霧の籬にむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔

 

いつのまに蓬がもとと結ぼほれ雪ふる里と荒れし垣根ぞ

 

年経れどこの契りこそ忘られね親の親とか言ひし一こと

 

身を変へて後も待ち見よこの世にて親を忘るるためしありやと

 

つれなさを昔に懲りぬ心こそ人のつらさに添へてつらけれ

 

改めて何かは見えん人の上にかかりと聞きし心変はりを

 

氷とぢ岩間の水は行き悩み空澄む月の影ぞ流るる

 

かきつめて昔恋しき雪もよに哀れを添ふる鴛鴦のうきねか

 

とけて寝ぬ寝覚めさびしき冬の夜に結ぼほれつる夢のみじかさ

 

なき人を慕ふ心にまかせてもかげ見ぬ水の瀬にやまどはん

 

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