2021年4月9日金曜日

『源氏物語』紫式部 3


 

乙女(16)

 

かけきやは川瀬の波もたちかへり君が御禊の藤のやつれを

 

藤衣きしは昨日と思ふまに今日はみそぎの瀬にかはる世を

 

さ夜中に友よびわたる雁がねにうたて吹きそふ荻のうは風

 

くれなゐの涙に深き袖の色を浅緑とやいひしをるべき

 

いろいろに身のうきほどの知らるるはいかに染めける中の衣ぞ

 

霜氷うたて結べる明けぐれの空かきくらし降る涙かな

 

天にます豊岡姫の宮人もわが志すしめを忘るな

 

少女子も神さびぬらし天つ袖ふるき世の友よはひ経ぬれば

 

かけて言はば今日のこととぞ思ほゆる日かげの霜の袖にとけしも

 

日かげにもしるかりけめや少女子が天の羽袖にかけし心は

 

鶯のさへづる春は昔にてむつれし花のかげぞ変はれる

 

九重を霞へだつる住処にも春と告げくる鶯の声

 

いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音さへ変はらぬ

 

鶯の昔を恋ひて囀るは木づたふ花の色やあせたる

 

心から春待つ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ

 

風に散る紅葉は軽し春の色を岩根の松にかけてこそ見め

 

玉鬘(14)

 

船人もたれを恋ふるや大島のうら悲しくも声の聞こゆる

 

来し方も行方も知らぬ沖に出でてあはれ何処に君を恋ふらん

 

君にもし心たがはば松浦なるかがみの神をかけて誓はん

 

年を経て祈る心のたがひなばかがみの神をつらしとや見ん

 

浮島を漕ぎ離れても行く方やいづくとまりと知らずもあるかな

 

行くさきも見えぬ波路に船出して風に任する身こそ浮きたれ

 

憂きことに胸のみ騒ぐひびきには響の灘も名のみなりけり

 

二もとの杉のたちどを尋ねずば布留川のべに君を見ましや

 

初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢瀬に身さへ流れぬ

 

知らずとも尋ねて知らん三島江に生ふる三稜のすぢは絶えじな

 

数ならぬみくりや何のすぢなればうきにしもかく根をとどめけん

 

恋ひわたる身はそれながら玉鬘いかなる筋を尋ね来つらん

 

着て見ればうらみられけりから衣かへしやりてん袖を濡らして

 

かへさんと言ふにつけても片しきの夜の衣を思ひこそやれ

 

初音(6)

 

うす氷解けぬる池の鏡には世にたぐひなき影ぞ並べる

 

曇りなき池の鏡によろづ代をすむべき影ぞしるく見えける

 

年月をまつに引かれて経る人に今日鶯の初音聞かせよ

 

引き分かれ年は経れども鶯の巣立ちし松の根を忘れめや

 

珍しや花のねぐらに木づたひて谷の古巣をとへる鶯

 

ふるさとの春の木末にたづねきて世の常ならぬ花を見るかな

 

胡蝶(14)

 

風吹けば浪の花さへ色見えてこや名に立てる山吹の崎

 

春の池や井手の河瀬に通ふらん岸の山吹底も匂へり

 

亀の上の山も訪ねじ船の中に老いせぬ名をばここに残さん

 

春の日のうららにさして行く船は竿の雫も花と散りける

 

紫のゆゑに心をしめたれば淵に身投げんことや惜しけき

 

淵に身を投げつべしやとこの春は花のあたりを立ちさらで見ん

 

花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るらん

 

こてふにも誘はれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば

 

思ふとも君は知らじな湧き返り岩洩る水に色し見えねば

 

ませのうらに根深く植ゑし竹の子のおのがよよにや生ひ別るべき

 

今さらにいかならんよか若竹の生ひ始めけん根をば尋ねん

 

橘のかをりし袖によそふれば変はれる身とも思ほえぬかな

 

袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりもこそすれ

 

うちとけてねも見ぬものを若草のことありがほに結ぼほるらん

 

蛍(8)

 

鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは

 

声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ

 

今日さへや引く人もなき水隠れに生ふるあやめのねのみ泣かれん

 

あらはれていとど浅くも見ゆるかなあやめもわかず泣かれけるねの

 

その駒もすさめぬものと名に立てる汀の菖蒲今日や引きつる

 

にほ鳥に影を並ぶる若駒はいつか菖蒲に引き別るべき

 

思ひ余り昔のあとを尋ぬれど親にそむける子ぞ類ひなき

 

古き跡を尋ぬれどげになかりけりこの世にかかる親の心は

 

常夏(4)

 

なでしこの常なつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねん

 

山がつの垣ほに生ひし撫子のもとの根ざしをたれか尋ねん

 

草若みひたちの海のいかが崎いかで相見む田子の浦波

 

ひたちなる駿河の海の須磨の浦に浪立ちいでよ箱崎の松

 

篝火(2)

 

篝火に立ち添ふ恋の煙こそ世には絶えせぬ焔なりけれ

 

行方なき空に消ちてよかがり火のたよりにたぐふ煙とならば

 

野分(4)

 

おほかたの荻の葉過ぐる風の音もうき身一つに沁むここちして

 

吹き乱る風のけしきに女郎花萎れしぬべきここちこそすれ

 

しら露に靡かましかば女郎花荒き風にはしをれざらまし

 

風騒ぎむら雲迷ふ夕べにも忘るるまなく忘られぬ君

 

御幸(9)

 

雪深きをしほの山に立つ雉子の古き跡をも今日はたづねよ

 

小塩山みゆき積もれる松原に今日ばかりなる跡やなからん

 

うちきらし朝曇りせしみゆきにはさやかに空の光やは見し

 

あかねさす光は空に曇らぬをなどてみゆきに目をきらしけん

 

ふたかたに言ひもてゆけば玉櫛笥わがみはなれぬかけごなりけり

 

わが身こそうらみられけれ唐ごろも君が袂に馴れずと思へば

 

からごろもまた唐衣からごろも返す返すも唐衣なる

 

うらめしや沖つ玉藻をかづくまで磯隠れける海人の心よ

 

寄辺なみかかる渚にうち寄せて海人も尋ねぬ藻屑とぞ見し

 

藤袴(8)

 

おなじ野の露にやつるる藤袴哀れはかけよかごとばかりも

 

たづぬるに遥けき野辺の露ならばうす紫やかごとならまし

 

妹背山深き道をば尋ねずてをだえの橋にふみまどひける

 

まどひける道をば知らず妹背山たどたどしくぞたれもふみ見し

 

数ならばいとひもせまし長月に命をかくるほどぞはかなき

 

朝日さす光を見ても玉笹の葉分の霜は消たずもあらなん

 

忘れなんと思ふも物の悲しきをいかさまにしていかさまにせん

 

心もて日かげに向かふ葵だに朝置く露をおのれやは消つ

 

真木柱(21)

 

下り立ちて汲みは見ねども渡り川人のせとはた契らざりしを

 

みつせ川渡らぬさきにいかでなほ涙のみをの泡と消えなん

 

心さへそらに乱れし雪もよに一人さえつる片敷の袖

 

一人ゐて焦るる胸の苦しきに思ひ余れる焔とぞ見し

 

うきことを思ひ騒げばさまざまにくゆる煙ぞいとど立ち添ふ

 

今はとて宿借れぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな

 

馴れきとは思ひ出づとも何により立ちとまるべき真木の柱ぞ

 

浅けれど石間の水はすみはてて宿守る君やかげはなるべき

 

ともかくも石間の水の結ぼほれかげとむべくも思ほえぬ世を

 

深山木に翅うち交はしゐる鳥のまたなく妬き春にもあるかな

 

などてかくはひ合ひがたき紫を心に深く思ひ初めけん

 

いかならん色とも知らぬ紫を心してこそ人はそめけれ

 

九重に霞隔てば梅の花ただかばかりも匂ひこじとや

 

かばかりは風にもつてよ花の枝に立ち並ぶべき匂ひなくとも

 

かきたれてのどけきころの春雨にふるさと人をいかに忍ぶや

 

ながめする軒の雫に袖ぬれてうたかた人を忍ばざらめや

 

思はずも井手の中みち隔つとも言はでぞ恋ふる山吹の花

 

おなじ巣にかへりしかひの見えぬかないかなる人か手ににぎるらん

 

巣隠れて数にもあらぬ雁の子をいづ方にかはとりかくすべき

 

おきつ船よるべ浪路にただよはば棹さしよらん泊まりをしへよ

 

よるべなみ風の騒がす船人も思はぬ方に磯づたひせず

 

梅が枝(11)

 

花の香は散りにし袖にとまらねどうつらん袖に浅くしまめや

 

花の枝にいとど心をしむるかな人のとがむる香をばつつめど

 

うぐひすの声にやいとどあくがれん心しめつる花のあたりに

 

色も香もうつるばかりにこの春は花咲く宿をかれずもあらなん

 

うぐひすのねぐらの枝も靡くまでなほ吹き通せ夜半の笛竹

 

心ありて風のよぐめる花の木にとりあへぬまで吹きやよるべき

 

かすみだに月と花とを隔てずばねぐらの鳥もほころびなまし

 

花の香をえならぬ袖に移してもことあやまりと妹や咎めん

 

めづらしとふるさと人も待ちぞ見ん花の錦を着て帰る君

 

つれなさは浮き世の常になり行くを忘れぬ人や人にことなる

 

限りとて忘れがたきを忘るるもこや世に靡く心なるらん

 

藤のうら葉(20)

 

わが宿の藤の色濃き黄昏にたづねやはこぬ春の名残を

 

なかなかに折りやまどはん藤の花たそがれ時のたどたどしくば

 

紫にかごとはかけん藤の花まつより過ぎてうれたけれども

 

いく返り露けき春をすぐしきて花の紐とく折に逢ふらん

 

たをやめの袖にまがへる藤の花見る人からや色もまさらん

 

浅き名を言ひ流しける河口はいかがもらしし関のあら垣

 

もりにけるきくだの関の河口の浅きにのみはおはせざらなん

 

咎むなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖のしづくを

 

何とかや今日のかざしよかつ見つつおぼめくまでもなりにけるかな

 

かざしてもかつたどらるる草の名は桂を折りし人や知るらん

 

あさみどりわか葉の菊をつゆにても濃き紫の色とかけきや

 

二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もなかりき

 

なれこそは岩もるあるじ見し人の行くへは知るや宿の真清水

 

なき人は影だに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水

 

そのかみの老い木はうべも朽ちにけり植ゑし小松も苔生ひにけり

 

いづれをも蔭とぞ頼む二葉より根ざしかはせる松の末々

 

色まさる籬の菊もをりをりに袖打ちかけし秋を恋ふらし

 

紫の雲にまがへる菊の花濁りなき世の星かとぞ見る

 

秋をへて時雨ふりぬる里人もかかる紅葉の折りをこそみね

 

世の常の紅葉とや見るいにしへのためしにひける庭の錦を

 

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