2021年4月9日金曜日

『源氏物語』紫式部 4


 

若菜(42)

 

さしながら昔を今につたふれば玉の小櫛ぞ神さびにける

 

さしつぎに見るものにもが万代をつげの小櫛も神さぶるまで

 

若葉さす野辺の小松をひきつれてもとの岩根を祈る今日かな

 

小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき

 

目に近くうつれば変はる世の中を行く末遠く頼みけるかな

 

命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき世の常ならぬ中の契りを

 

中道を隔つるほどはなけれども心乱るる今朝のあは雪

 

はかなくて上の空にぞ消えぬべき風に漂ふ春のあは

 

そむきにしこの世に残る心こそ入る山みちの絆なりけれ

 

そむく世のうしろめたくばさりがたき絆を強ひてかけなはなれそ

 

年月を中に隔てて逢坂のさもせきがたく落つる涙か

 

涙のみせきとめがたき清水にて行き逢ふ道は早く絶えにき

 

沈みしも忘れぬものを懲りずまに身も投げつべき宿の藤波

 

身を投げん淵もまことの淵ならで懸けじやさらに懲りずまの波

 

身に近く秋や来ぬらん見るままに青葉の山もうつろひにけり

 

水鳥の青羽は色も変はらぬを萩の下こそけしきことなれ

 

老いの波かひある浦に立ちいでてしほたるるあまをたれか咎めん

 

しほたるるあまを波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋を

 

世を捨てて明石の浦に住む人も心の闇は晴るけしもせじ

 

光いでん暁近くなりにけり今ぞ見しよの夢語りする

 

いかなれば花に木伝ふ鶯の桜を分きてねぐらとはせぬ

 

深山木に塒定むるはこ鳥もいかでか花の色に飽くべき

 

よそに見て折らぬ歎きはしげれどもなごり恋しき花の夕かげ

 

今さらに色にな出でそ山桜及ばぬ枝に思ひかけきと

 

恋ひわぶる人の形見と手ならせば汝よ何とて鳴く音なるらん

 

たれかまた心を知りて住吉の神代を経たる松にこと問ふ

 

住の江を生けるかひある渚とは年ふるあまも今日や知るらん

 

昔こそ先づ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても

 

住の江の松に夜深く置く霜は神の懸けたる木綿かづらかも

 

神人の手に取り持たる榊葉に木綿かけ添ふる深き夜の霜

 

祝子が木綿うち紛ひ置く霜は実にいちじるき神のしるしか

 

おきて行く空も知られぬ明けぐれにいづくの露のかかる袖なり

 

あけぐれの空にうき身は消えななん夢なりけりと見てもやむべく

 

悔しくもつみをかしける葵草神の許せる挿頭ならぬに

 

もろかづら落ち葉を何に拾ひけん名は睦まじき挿頭なれども

 

わが身こそあらぬさまなれそれながら空おぼれする君は君なり

 

消え留まるほどやは経べきたまさかに蓮の露のかかるばかりを

 

契りおかんこの世ならでも蓮の葉に玉ゐる露の心隔つな

 

夕露に袖濡らせとやひぐらしの鳴くを聞きつつ起きて行くらん

 

待つ里もいかが聞くらんかたがたに心騒がすひぐらしの声

 

あまの世をよそに聞かめや須磨の浦に藻塩垂れしもたれならなくに

 

あま船にいかがは思ひおくれけん明石の浦にいさりせし君

 

柏木(11)

 

今はとて燃えん煙も結ぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らん

 

立ち添ひて消えやしなましうきことを思ひ乱るる煙くらべに

 

行くへなき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ

 

たが世にか種は蒔きしと人問はばいかが岩根の松は答へん

 

時しあれば変はらぬ色に匂けり片枝折れたる宿の桜も

 

この春は柳の芽にぞ玉は貫く咲き散る花の行くへ知らねば

 

このもとの雪に濡れつつ逆まに霞の衣着たる春かな

 

亡き人も思はざりけん打ち捨てて夕べの霞君着たれとは

 

恨めしや霞の衣たれ着よと春よりさきに花の散りけん

 

ことならばならしの枝にならさなん葉守の神の許しありきと

 

柏木に葉守の神は坐すとも人馴らすべき宿の梢か

 

横笛(8)

 

世を別れ入りなん道は後るとも同じところを君も尋ねよ

 

うき世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ

 

憂きふしも忘れずながらくれ竹の子は捨てがたき物にぞありける

 

ことに出で言はぬを言ふにまさるとは人に恥ぢたる気色とぞ見る

 

深き夜の哀ればかりは聞きわけどことよりほかにえやは言ひける

 

露しげき葎の宿にいにしへの秋に変はらぬ虫の声かな

 

横笛の調べはことに変はらぬをむなしくなりし音こそ尽きせね

 

笛竹に吹きよる風のごとならば末の世長き音に伝へなん

 

鈴虫(6)

 

蓮葉を同じうてなと契りおきて露の分かるる今日ぞ悲しき

 

隔てなく蓮の宿をちぎりても君が心やすまじとすらん

 

大かたの秋をば憂しと知りにしを振り捨てがたき鈴虫の声

 

心もて草の宿りを厭へどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ

 

雲の上をかけはなれたる住家にも物忘れせぬ秋の夜の月

 

月影は同じ雲井に見えながらわが宿からの秋ぞ変はれる

 

夕霧(26)

 

山里の哀れを添ふる夕霧に立ち出でんそらもなきここちして

 

山がつの籬をこめて立つ霧も心空なる人はとどめず

 

われのみや浮き世を知れるためしにて濡れ添ふ袖の名を朽たすべき

 

おほかたはわが濡れ衣をきせずとも朽ちにし袖の名やは隠るる

 

萩原や軒端の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき

 

わけ行かん草葉の露をかごとにてなほ濡衣をかけんとや思ふ

 

たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心から惑はるるかな

 

せくからに浅くぞ見えん山河の流れての名をつつみはてずば

 

女郎花萎るる野辺をいづくとて一夜ばかりの宿を借りけん

 

秋の野の草の繁みは分けしかど仮寝の枕結びやはせし

 

哀れをもいかに知りてか慰めん在るや恋しき無きや悲しき

 

何れとも分きて眺めん消えかへる露も草葉の上と見ぬ世に

 

里遠み小野の篠原分けて来てわれもしかこそ声も惜しまね

 

ふぢ衣露けき秋の山人は鹿のなく音に音をぞ添へつる

 

見し人の影すみはてぬ池水にひとり宿守る秋の夜の月

 

いつとかは驚かすべきあけぬ夜の夢さめてとか言ひし一言

 

朝夕に泣く音を立つる小野山はたえぬ涙や音無しの滝

 

上りにし峰の煙に立ちまじり思はぬ方になびかずもがな

 

恋しさの慰めがたき形見にて涙に曇る玉の箱かな

 

うらみわび胸あきがたき冬の夜にまたさしまさる関の岩かど

 

馴るる身を恨みんよりは松島のあまの衣にたちやかへまし

 

松島のあまの濡衣馴れぬとて脱ぎ変へつてふ名を立ためやは

 

契りあれや君を心にとどめおきて哀れと思ひ恨めしと聞く

 

何故か世に数ならぬ身一つを憂しとも思ひ悲しとも聞く

 

数ならば身に知られまし世の憂さを人のためにも濡らす袖かな

 

人の世の憂きを哀れと見しかども身に代へんとは思はざりしを

 

御法(12)

 

惜しからぬこの身ながらも限りとて薪尽きなんことの悲しさ

 

薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法ぞはるけき

 

絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを

 

結びおく契りは絶えじおほかたの残り少なき御法なりとも

 

おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩の上露

 

ややもせば消えを争ふ露の世に後れ先きだつ程へずもがな

 

秋風にしばし留まらぬ露の世をたれか草葉の上とのみ見ん

 

いにしへの秋の夕べの恋しきに今はと見えし明け暗れの夢

 

古への秋さへ今のここちして濡れにし袖に露ぞ置き添ふ

 

露けさは昔今とも思ほえずおほかた秋の世こそつらけれ

 

枯れはつる野べをうしとや亡き人の秋に心をとどめざりけん

 

昇りにし雲井ながらも返り見よわれ飽きはてぬ常ならぬ世に

 

まぼろし(26)

 

わが宿は花もてはやす人もなし何にか春の訪ねきつらん

 

香をとめて来つるかひなくおほかたの花の便りと言ひやなすべき

 

うき世にはゆき消えなんと思ひつつ思ひのほかになほぞ程経る

 

植ゑて見し花の主人もなき宿に知らず顔にて来居る鶯

 

今はとて荒しやはてん亡き人の心とどめし春の垣根を

 

泣く泣くも帰りにしかな仮の世はいづくもつひのとこよならぬに

 

かりがゐし苗代水の絶えしよりうつりし花の影をだに見ず

 

夏ごろもたちかへてける今日ばかり古き思ひもすすみやはする

 

羽衣のうすきにかはる今日よりは空蝉の世ぞいとど悲しき

 

さもこそは寄るべの水に水草ゐめ今日のかざしよ名さへ忘るる

 

おほかたは思ひ捨ててし世なれどもあふひはなほやつみおかすべき

 

亡き人を忍ぶる宵の村雨に濡れてや来つる山ほととぎす

 

郭公君につてなん古さとの花橘は今盛りぞと

 

つれづれとわが泣き暮らす夏の日をかごとがましき虫の声かな

 

夜を知る蛍を見ても悲しきは時ぞともなき思ひなりけり

 

七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭の露ぞ置き添ふ

 

君恋ふる涙ははてもなきものを今日をば何のはてといふらん

 

人恋ふるわが身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり

 

もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな

 

大空を通ふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方尋ねよ

 

宮人は豊の明りにいそぐ今日日かげも知らで暮らしつるかな

 

死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほまどふかな

 

かきつめて見るもかひなし藻塩草同じ雲井の煙とをなれ

 

春までの命も知らず雪のうちに色づく梅を今日かざしてん

 

千代の春見るべきものと祈りおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる

 

物思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世も今日や尽きぬる

 

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