2021年4月9日金曜日

『源氏物語』紫式部 5


 

匂宮(1)

 

おぼつかなたれに問はまし如何にして始めも果ても知らぬわが身ぞ

 

紅梅(4)

 

心ありて風の匂はす園の梅にまづ鶯の訪はずやあるべき

 

花の香に誘はれぬべき身なりせば花のたよりを過ぐさましやは

 

本つ香の匂へる君が袖なれば花もえならぬ名をや散らさん

 

花の香を匂はす宿に尋め行かば色に愛づとや人の咎めん

 

竹河(24)

 

折りて見ばいとど匂ひもまさるやと少し色めけ梅の初花

 

よそにては捥木なりとや定むらん下に匂へる梅の初花

 

人は皆花に心を移すらん一人ぞ惑ふ春の夜の闇

 

折からや哀れも知らん梅の花ただかばかりに移りしもせじ

 

竹河のはしうちいでし一節に深き心の底は知りきや

 

竹河によを更かさじと急ぎしもいかなる節を思ひおかまし

 

桜ゆゑ風に心の騒ぐかな思ひぐまなき花と見る見る

 

咲くと見てかつは散りぬる花なれば負くるを深き怨みともせず

 

風に散ることは世の常枝ながらうつろふ花をただにしも見じ

 

心ありて池の汀に落つる花泡となりてもわが方に寄れ

 

大空の風に散れども桜花おのがものぞと掻き集めて見る

 

桜花匂ひあまたに散らさじとおほふばかりの袖はありやは

 

つれなくて過ぐる月日を数へつつ物怨めしき春の暮れかな

 

いでやなぞ数ならぬ身にかなはぬは人に負けじの心なりけり

 

わりなしや強きによらん勝ち負けを心一つにいかが任する

 

哀れとて手を許せかし生き死にを君に任するわが身とならば

 

花を見て春は暮らしつ今日よりや繁きなげきの下に惑はん

 

今日ぞ知る空をながむるけしきにて花に心を移しけりとも

 

哀れてふ常ならぬ世の一言もいかなる人に掛くるものぞは

 

生ける世の死には心に任せねば聞かでややまん君が一言

 

手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや

 

紫の色は通へど藤の花心にえこそ任せざりけれ

 

竹河のその夜のことは思ひいづや忍ぶばかりの節はなけれど

 

流れての頼みむなしき竹河に世はうきものと思ひ知りにき

 

橋姫(13)

 

打ち捨ててつがひ去りにし水鳥のかりのこの世に立ち後れけん

 

いかでかく巣立ちけるぞと思ふにもうき水鳥の契りをぞ知る

 

泣く泣くも羽うち被する君なくばわれぞ巣守もりになるべかりける

 

見し人も宿も煙となりにしをなどてわが身の消え残りけん

 

世をいとふ心は山に通へども八重立つ雲を君や隔つる

 

跡たえて心すむとはなけれども世を宇治山に宿をこそ借れ

 

山おろしに堪へぬ木の葉の露よりもあやなく脆きわが涙かな

 

朝ぼらけ家路も見えず尋ねこし槙の尾山は霧こめてけり

 

雲のゐる峰のかけぢを秋霧のいとど隔つる頃にもあるかな

 

橋姫の心を汲みて高瀬さす棹の雫に袖ぞ濡れぬる

 

さしかへる宇治の川長朝夕の雫や袖をくたしはつらん

 

目の前にこの世をそむく君よりもよそに別るる魂ぞ悲しき

 

命あらばそれとも見まし人知れず岩根にとめし松の生ひ末

 

椎が本(21)

 

山風に霞吹き解く声はあれど隔てて見ゆる遠の白波

 

遠近の汀の波は隔つともなほ吹き通へ宇治の川風

 

山桜にほふあたりに尋ね来て同じ挿頭を折りてけるかな

 

挿頭折る花のたよりに山賤の垣根を過ぎぬ春の旅人

 

われなくて草の庵は荒れぬともこの一ことは枯れじとぞ思ふ

 

いかならん世にか枯れせん長き世の契り結べる草の庵は

 

牡鹿鳴く秋の山里いかならん小萩が露のかかる夕暮れ

 

涙のみきりふさがれる山里は籬に鹿ぞもろ声に鳴く

 

朝霧に友惑はせる鹿の音を大方にやは哀れとも聞く

 

色変はる浅茅を見ても墨染めにやつるる袖を思ひこそやれ

 

色変はる袖をば露の宿りにてわが身ぞさらに置き所なき

 

秋霧の晴れぬ雲井にいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらん

 

君なくて岩のかけ道絶えしより松の雪をも何とかは見る

 

奥山の松葉に積もる雪とだに消えにし人を思はましかば

 

雪深き山の桟道君ならでまたふみ通ふ跡を見ぬかな

 

つららとぢ駒踏みしだく山河を導べしがてらまづや渡らん

 

立ち寄らん蔭と頼みし椎が本むなしき床になりにけるかな

 

君が折る峰のわらびと見ましかば知られやせまし春のしるしも

 

雪深き汀の小芹誰がために摘みかはやさん親無しにして

 

つてに見し宿の桜をこの春に霞隔てず折りて挿頭さん

 

いづくとか尋ねて折らん墨染めに霞こめたる宿の桜を

 

総角(31)

 

あげまきに長き契りを結びこめ同じところに縒りも合はなん

 

貫きもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが結ばん

 

山里の哀れ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな

 

鳥の音も聞こえぬ山と思ひしをよにうきことはたづねきにけり

 

おなじ枝を分きて染めける山姫にいづれか深き色と問はばや

 

山姫の染むる心はわかねども移らふかたや深きなるらん

 

女郎花咲ける大野をふせぎつつ心せばくやしめを結ふらん

 

霧深きあしたの原の女郎花心をよせて見る人ぞ見る

 

しるべせしわれやかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道

 

かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば

 

よのつねに思ひやすらん露深き路のささ原分けて来つるも

 

さよ衣着てなれきとは言はずとも恨言ばかりはかけずしもあらじ

 

隔てなき心ばかりは通ふとも馴れし袖とはかけじとぞ思ふ

 

中絶えんものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん

 

絶えせじのわが頼みにや宇治橋のはるけき中を待ち渡るべき

 

いつぞやも花の盛りに一目見し木の下さへや秋はさびしき

 

桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花も紅葉も常ならぬ世に

 

いづこより秋は行きけん山里の紅葉の蔭は過ぎうきものを

 

見し人もなき山里の岩がきに心長くも這へる葛かな

 

秋はてて寂しさまさる木の本を吹きな過ぐしそ嶺の松風

 

若草のねみんものとは思はねど結ぼほれたるここちこそすれ

 

ながむるは同じ雲井をいかなればおぼつかなさを添ふる時雨ぞ

 

あられ降る深山の里は朝夕にながむる空もかきくらしつつ

 

霜さゆる汀の千鳥うちわびて鳴く音悲しき朝ぼらけかな

 

あかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る

 

かきくもり日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな

 

くれなゐに落つる涙もかひなきはかたみの色を染めぬなりけり

 

おくれじと空行く月を慕ふかな終ひにすむべきこの世ならねば

 

恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山には跡を消なまし

 

きしかたを思ひいづるもはかなきを行く末かけて何頼むらん

 

行く末を短きものと思ひなば目の前にだにそむかざらなん

 

早蕨(15)

 

君にとてあまたの年をつみしかば常を忘れぬ初蕨なり

 

この春はたれにか見せんなき人のかたみに摘める峰のさわらび

 

折る人のこころに通ふ花なれや色にはいでず下ににほへる

 

見る人にかごと寄せける花の枝を心してこそ折るべかりけれ

 

はかなしや霞のころもたちしまに花の紐とく折も来にけり

 

見る人もあらしにまよふ山里に昔覚ゆる花の香ぞする

 

袖ふれし梅は変はらぬにほひにてねごめうつろふ宿やことなる

 

さきに立つ涙の川に身を投げば人におくれぬ命ならまし

 

身を投げん涙の川に沈みても恋しき瀬々に忘れしもせじ

 

人は皆いそぎ立つめる袖のうらに一人もしほをたるるあまかな

 

しほたるるあまの衣に異なれやうきたる波に濡るる我が袖

 

ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを身を宇治川に投げてましかば

 

過ぎにしが恋しきことも忘れねど今日はた先づも行く心かな

 

ながむれば山より出でて行く月も世に住みわびて山にこそ入れ

 

しなてるやにほの湖に漕ぐ船の真帆ならねども相見しものを

 

宿り木(24)

 

世の常の垣根ににほふ花ならば心のままに折りて見ましを

 

霜にあへず枯れにし園の菊なれど残りの色はあせずもあるかな

 

今朝のまの色にや愛でん置く露の消えぬにかかる花と見る見る

 

よそへてぞ見るべかりける白露の契りかおきし朝顔の花

 

消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるる露はなほぞまされる

 

大空の月だに宿るわが宿に待つ宵過ぎて見えぬ君かな

 

山里の松の蔭にもかくばかり身にしむ秋の風はなかりき

 

をみなへし萎れぞ見ゆる朝露のいかに置きける名残なるらん

 

おほかたに聞かましものを蜩の声うらめしき秋の暮れかな

 

うち渡し世に許しなき関川をみなれそめけん名こそ惜しけれ

 

深からず上は見ゆれど関川のしもの通ひは絶ゆるものかは

 

いたづらに分けつる路の露しげみ昔おぼゆる秋の空かな

 

またびとになれける袖の移り香をわが身にしめて恨みつるかな

 

見なれぬる中の衣と頼みしをかばかりにてやかけ離れなん

 

結びける契りことなる下紐をただひとすぢに恨みやはする

 

やどり木と思ひ出でずば木のもとの旅寝もいかに寂しからまし

 

荒れはつる朽ち木のもとを宿り木と思ひおきけるほどの悲しさ

 

穂にいでぬ物思ふらししのすすき招く袂の露しげくして

 

あきはつる野べのけしきもしの薄ほのめく風につけてこそ知れ

 

すべらぎのかざしに折ると藤の花及ばぬ枝に袖かけてけり

 

よろづ代をかけてにほはん花なれば今日をも飽かぬ色とこそ見れ

 

君がため折れるかざしは紫の雲に劣らぬ花のけしきか

 

世の常の色とも見えず雲井まで立ちのぼりける藤波の花

 

かほ鳥の声も聞きしにかよふやと繁みを分けてけふぞたづぬる

 

東屋(11)

 

見し人のかたしろならば身に添へて恋しき瀬々のなでものにせん

 

みそぎ河瀬々にいださんなでものを身に添ふかげとたれか頼まん

 

しめゆひし小萩が上もまよはぬにいかなる露にうつる下葉ぞ

 

宮城野の小萩がもとと知らませばつゆも心を分かずぞあらまし

 

ひたぶるに嬉しからまし世の中にあらぬ所と思はましかば

 

うき世にはあらぬ所を求めても君が盛りを見るよしもがな

 

絶えはてぬ清水になどかなき人の面影をだにとどめざりけん

 

さしとむるむぐらやしげき東屋のあまりほどふる雨そそぎかな

 

かたみぞと見るにつけても朝霧の所せきまで濡るる袖かな

 

やどり木は色変はりぬる秋なれど昔おぼえて澄める月かな

 

里の名も昔ながらに見し人の面がはりせる閨の月かげ

 

浮舟(22)

 

まだふりぬものにはあれど君がため深き心にまつとしらなん

 

長き世をたのめてもなほ悲しきはただ明日知らぬ命なりけり

 

心をば歎かざらまし命のみ定めなき世と思はましかば

 

世に知らず惑ふべきかな先に立つ涙も道をかきくらしつつ

 

涙をもほどなき袖にせきかねていかに別れをとどむべき身ぞ

 

宇治橋の長き契りは朽ちせじをあやぶむ方に心騒ぐな

 

絶え間のみ世には危ふき宇治橋を朽ちせぬものとなほたのめとや

 

年経とも変はらんものか橘の小嶋の崎に契るこころは

 

橘の小嶋は色も変はらじをこの浮舟ぞ行くへ知られぬ

 

峰の雪汀の氷踏み分けて君にぞ惑ふ道にまどはず

 

降り乱れ汀に凍る雪よりも中空にてぞわれは消ぬべき

 

ながめやるそなたの雲も見えぬまで空さへくるる頃のわびしさ

 

ながめやる遠の里人いかならんはれぬながめにかきくらすころ

 

里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住みうき

 

かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に浮きて世をふる身ともなさばや

 

つれづれと身を知る雨のをやまねば袖さへいとど水かさまさりて

 

浪こゆる頃とも知らず末の松らんとのみ思ひけるかな

 

いづくにか身をば捨てんとしら雲のかからぬ山もなく泣くぞ行く

 

歎きわび身をば捨つとも亡きかげに浮き名流さんことをこそ思へ

 

からをだにうき世の中にとどめずばいづくをはかと君も恨みん

 

のちにまた逢ひ見んことを思はなんこのよの夢に心まどはで

 

鐘の音の絶ゆる響きに音を添へてわが世尽きぬと君に伝へよ

 

蜻蛉(11)

 

忍び音や君も泣くらんかひもなきしでのたをさに心通はば

 

橘の匂ふあたりはほととぎす心してこそ鳴くべかりけれ

 

われもまたうきふるさとをあれはてばたれ宿り木の蔭をしのばん

 

哀れ知る心は人におくれねど数ならぬ身に消えつつぞ経る

 

つれなしとここら世を見るうき身だに人の知るまで歎きやはする

 

荻の葉に露吹き結ぶ秋風も夕べぞわきて身にはしみにける

 

女郎花乱るる野べにまじるとも露のあだ名をわれにかけめや

 

花といへば名こそあだなれをみなへしなべての露に乱れやはする

 

旅寝してなほ試みよをみなへし盛りの色に移り移らず

 

宿貸さば一夜は寝なんおほかたの花に移らぬ心なりとも

 

ありと見て手にはとられず見ればまた行くへもしらず消えしかげろふ

 

手習(28)

 

身を投げし涙の川の早き瀬にしがらみかけてたれかとどめし

 

われかくて浮き世の中にめぐるともたれかは知らん月の都に

 

あだし野の風になびくな女郎花われしめゆはん路遠くとも

 

移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花浮き世をそむく草の庵に

 

松虫の声をたづねて来しかどもまた荻原の露にまどひぬ

 

秋の野の露分け来たる狩りごろも葎茂れる宿にかこつな

 

深き夜の月を哀れと見ぬ人や山の端近き宿にとまらぬ

 

山の端に入るまで月をながめ見ん閨の板間もしるしありやと

 

忘られぬ昔のことも笛竹の継ぎし節にも音ぞ泣かれける

 

笛の音に昔のことも忍ばれて帰りしほども袖ぞ濡れにし

 

はかなくて世にふる川のうき瀬には訪ねも行かじ二本の杉

 

ふる川の杉の本立知らねども過ぎにし人によそへてぞ見る

 

心には秋の夕べをわかねどもながむる袖に露ぞ乱るる

 

山里の秋の夜深き哀れをも物思ふ人は思ひこそ知れ

 

うきものと思ひも知らで過ぐす身を物思ふ人と人は知りけり

 

なきものに身をも人をも思ひつつ捨ててし世をぞさらに捨てつる

 

限りぞと思ひなりにし世の中をかへすがへすもそむきぬるかな

 

岸遠く漕ぎ離るらんあま船に乗りおくれじと急がるるかな

 

こころこそ浮き世の岸を離るれど行くへも知らぬあまの浮き木ぞ

 

木がらしの吹きにし山の麓には立ち隠るべき蔭だにぞなき

 

待つ人もあらじと思ふ山里の梢を見つつなほぞ過ぎうき

 

おほかたの世をそむきける君なれど厭ふによせて身こそつらけれ

 

かきくらす野山の雪をながめてもふりにしことぞ今日も悲しき

 

山里の雪間の若菜摘みはやしなほ生ひさきの頼まるるかな

 

雪深き野べの若菜も今よりは君がためにぞ年もつむべき

 

袖ふれし人こそ見えね花の香のそれかとにほふ春のあけぼの

 

見し人は影もとまらぬ水の上に落ち添ふ涙いとどせきあへず

 

あま衣変はれる身にやありし世のかたみの袖をかけて忍ばん

 

夢の浮橋(1)

 

法の師を訪ぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかな

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