2021年4月14日水曜日

岡野弘彦


びようびようと犬啼きめぐる夜の闇に友を焼く火を守りて立ちをり


唇の熱くなるまで一本の煙草分ちし彼も死にたり


辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか

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晩夏光おとろへし夕酢は立てり一本の瓶の中にて


わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる


奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり


昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつおり


乱立の針の燦一本の目處より赤き絲垂れており


夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す


止血鉗子光れる棚の硝子戸にあぢさゐの花の薄き輪郭


とり落とさば火焔とならむてのひらのひとつ柘榴の重みにし耐ふ


死神はてのひらに赤き球置きて人間と人間のあひを走れり


美しき球の透視をゆめむべくあぢさゐの花あまた咲きたり


あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇


水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり


他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水

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さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり


つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ一つ夕焼けの色に染まりて


漢の武帝西方の葡萄つくづくと見て未知の香をおそれ給へり


嫁く吾れに多くやさしき心づけの集りし夜の菊の静けさ


夜蝉一つじじつと鳴いて落ちゆきし奈落の深さわが庭にあり


針の穴一つ通してきさらぎの梅咲く空にぬけてゆかまし


一期なる恋もしらねば涼やかにはみてさびしき氷白玉



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あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ


外套のボタンがひとついつのまにもぎとられゐる夜路寒々し


子らみたり召されて征きしたたかひを敗れよとしも祈るべかりしか


いくたびか和平のときをこばみつつ敗れてつひに悪を遂げたり


いかに戦ひいかに勝ちいかに敗れしか慄然としてはじめて知りぬ


ふとしては食後の卓におしだまり澄みゆく朝の空を仰ぐも

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かすがの に おし てる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも


すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の ひま にも すめる あき の そら かな


あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ


あたらしき まち のちまた の のき の は に かがよふ はる を いつ と か またむ



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幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく


白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ


うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまな人


白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり


たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る


足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる


うす紅に葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花


旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に


麦ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村


この冬の夜に愛すべきもの、薔薇あり、つめたき紅の郵便切手あり


水無月の青く明けゆく停車場に少女にも似て動く機関車

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裏まちにうちすてられし犬の子のなく馨さむき冬のあめかな


あすなろの高き梢を風わたるわれは涙の目をしばたゝく


牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ


街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る


曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる徑